第1話 丈夫な妻なら我慢できる
第1話 丈夫な妻なら我慢できる
結婚六周年の朝、エステルはいつもより一時間早く目を覚ました。薄い生成り色の寝間着から淡い青色のドレスへ着替え、鏡の前で栗色の髪をまとめると、侍女が用意した真珠の耳飾りを自分の手でつけた。レイモンドから結婚三周年に贈られた品で、最近は身につける機会が減っていたが、今日くらいは気づいてくれるかもしれないと思ったのである。寝室の窓を開けると、庭師が刈ったばかりの芝の匂いが入り込み、窓枠に止まった小鳥が首を傾けた。
「今日は降らないでちょうだいね。せっかくの記念日なのだから」
小鳥に話しかけた自分がおかしくなり、エステルは少しだけ口元を緩めた。空には細い雲が浮かんでいたが、雨になる様子はない。彼女は窓辺の植木鉢へ水をやり、枯れた葉を二枚摘み取ってから食堂へ向かった。
朝食の食卓には、焼きたての丸パン、半熟卵、薄く切った燻製肉、蜂蜜をかけた林檎が並んでいた。レイモンドは白いシャツの袖を肘までまくり、新聞を読みながら燻製肉だけを先に食べていた。昔から好きなものを最初に食べる癖があり、豆の煮込みは最後まで皿の隅に残す。エステルは向かいの席へ座ると、夕食について尋ねるため、膝の上のナプキンを丁寧に広げた。
「今夜の予定は覚えていらっしゃいますか。料理長が、あなたのお好きな仔牛の葡萄酒煮込みを作ってくれるそうです」
レイモンドは新聞から顔を上げず、パンをちぎって口へ運んだ。食堂の隅では、若い従僕が銀のポットを磨いており、布が金属をこする音が小さく続いている。エステルは返事を待ちながら紅茶へ角砂糖を一つ落としたが、レイモンドは新聞の頁をめくった。
「結婚記念日でしょう。今夜だけは、執務も早めに切り上げてくださいね」
「分かっている。六年目だろう」
「覚えていてくださったのですね」
「去年、君が五年目だと言っていたからな。一を足せば六になる」
あまりにも得意そうに言うため、エステルは笑うべきか迷った。結局、蜂蜜のかかった林檎を一切れ口に入れ、甘酸っぱい果汁と一緒に言葉を飲み込んだ。レイモンドはそんな妻の様子にも気づかず、食後の珈琲を求めて指を鳴らした。
午前中、エステルは執務室で領地から届いた報告書を確認した。小麦の収穫量、用水路の修繕費、冬に備えた薪の備蓄量を帳簿へ書き込み、計算が合わない箇所には赤い印をつけた。机の端には昨日こぼした紅茶の丸い染みが残っており、拭くように頼もうと思いながら、忙しさに紛れて三度も忘れていた。六年前、嫁いできたばかりの頃には赤字の数字ばかりだった帳簿が、今では黒い文字で埋まっている。
「奥様、少しお休みになってはいかがですか。今夜のために朝から働き通しではありませんか」
侍女長のマーサが蜂蜜入りの温かい牛乳を置き、エステルの手から羽根ペンを取り上げた。五十歳を過ぎたマーサは、灰色の髪をきっちりとまとめ、黒いドレスの腰に鍵束を下げている。歩くたびに鍵が触れ合って鳴るため、姿が見えなくても彼女が近づいてくることだけは分かった。
「あと三枚だけです。明日に回すと、明日の仕事が増えてしまいますから」
「そのようにおっしゃって、奥様の『あと三枚』が三枚で終わったことはございません」
「今日は終わらせます。結婚記念日の晩餐へ帳簿を持ち込みたくはありませんもの」
「当然です。帳簿と結婚なさったわけではございませんからね」
マーサの言葉に、エステルは声を立てて笑った。笑いながらも視線は報告書へ戻り、羽根ペンを取り返して最後の数字を書き込む。廊下を走った見習い侍女が叱られる声や、厨房で皿を落とした音まで聞こえてくる昼下がりだった。
夕方になると、食堂には白いクロスが掛けられ、銀の燭台へ新しい蝋燭が立てられた。卓上には薄桃色の薔薇が飾られ、エステルが選んだ葡萄酒も開けられている。料理長は仔牛肉を朝から香草に漬け込み、玉葱と人参を葡萄酒でじっくり煮ていたため、厨房から食堂まで肉と香草の濃い匂いが漂っていた。エステルは青い昼用ドレスから深緑色の絹のドレスへ着替え、胸元に小さな真珠の首飾りをつけて夫を待った。
「旦那様は、まだ執務室でしょうか」
「いいえ、奥様。先ほど玄関を出られました」
若い侍女の答えを聞き、エステルは手にしていたナプキンを折り直した。皺など一つもないのに、角と角を合わせ、もう一度膝の上へ置く。外は夕焼けで赤く染まり、庭の噴水から落ちる水が、開いた窓の向こうで規則正しい音を立てていた。
「どちらへ行ったのです」
「リリア様が、夕暮れを見ると胸が苦しくなるとおっしゃいまして……。旦那様が湖畔まで散歩にお連れになりました」
「胸が苦しいのに、散歩へ出たのですか」
「新鮮な空気を吸えば楽になるそうでございます」
侍女は困ったように視線を落とした。エステルは彼女を責めても仕方がないと思い、料理が冷めないよう蓋をするよう頼んだ。まだ約束の時刻まで少しあるのだから、散歩から戻ってくるかもしれないと考えたのである。
一時間が過ぎても、レイモンドは戻らなかった。葡萄酒煮込みの表面には薄い脂の膜が張り、温め直したパンは水分を失って固くなった。エステルは薔薇の花びらが一枚ずつ卓上へ落ちるのを眺めながら、冷えた人参を小さく切って口へ入れた。厨房からは仕事を終えた料理人たちが夕食を取る声が聞こえ、誰かが今日のスープは塩辛いと笑っている。
「奥様、料理を温め直させましょうか」
マーサが静かに尋ね、椅子の背へ毛織りの肩掛けを掛けた。夜気が窓から入り、露出したエステルの首元を冷やしている。エステルは首飾りの真珠を指先で一つずつなぞり、窓の外へ目を向けた。
「もう結構です。料理長にも休んでもらってください」
「奥様もお部屋へお戻りくださいませ」
「もう少しだけ待ちます。約束を忘れたのではなく、リリアの具合が思ったより悪いのかもしれません」
「胸が苦しい方が、三時間も湖畔を歩けるものでしょうか」
「マーサ」
「失礼いたしました。年を取ると、思ったことが口から逃げ出してしまうのです」
マーサはそう言いながらも、少しも反省していない顔をしていた。エステルは叱る代わりに、固くなったパンをスープへ浸した。せめて料理を無駄にしたくなかったが、二口目を食べる気にはなれなかった。
日付が変わる頃、玄関の扉がようやく開いた。レイモンドは紺色の上着を片腕に掛け、酒とリリアが使っている薔薇の香油の匂いをまとっていた。湖畔を歩いただけにしては靴に泥がついておらず、頬には酒を飲んだ後の赤みが残っている。エステルは冷え切った食堂で背筋を伸ばし、夫が自分から説明するのを待った。
「まだ起きていたのか。先に休めばよかっただろう」
「今夜が何の日か、朝には覚えていらっしゃいましたね」
「ああ。だが、リリアの具合が悪くなった。彼女を一人にはできない」
「具合はよくなったのですか」
「湖畔で風に当たったら落ち着いた。その後、食事を取らせるために町の料理店へ寄った」
エステルは冷えた仔牛肉と、レイモンドの口元についた菓子の粉を見比べた。自分が用意した晩餐を待たせたまま、リリアと町で食事を済ませたらしい。胸元の真珠が急に重くなった気がして、エステルは留め金へ指をかけた。
「せめて使いを寄こしてくだされば、料理長たちを待たせずに済みました。朝からあなたの好物を用意していたのですよ」
「大げさだな。食事など明日でも食べられるだろう」
「結婚六周年は、今日だけです」
「リリアは体が弱いんだ。君は丈夫なのだから、これくらい我慢できるだろう」
その言葉を聞いたエステルの指が止まった。レイモンドは言うべきことを言い終えたように欠伸をし、食卓に並んだ料理を一度も見ずに背を向ける。階段を上がる足音が遠ざかると、食堂には燃え尽きかけた蝋燭の匂いだけが残った。
翌朝、エステルはいつもと同じ時刻に起きた。記念日のために着た深緑色のドレスは椅子の背に掛けたままで、真珠の耳飾りは化粧台の上へ無造作に置いてある。彼女は飾りのない灰色の仕事着へ着替え、髪を一本の紐で束ねると、朝食を取らずに執務室へ入った。昨夜の葡萄酒が残った食堂では、使用人が冷えた肉を小分けにし、余った人参を昼のスープへ使う相談をしていた。
机の上へ、六年分の帳簿と予定表を並べた。領地の税収、商会との契約、橋の修繕、使用人の給与、夜会への出席者、贈答品を送る相手の好みまで、すべてエステルの字で記録されている。レイモンドの署名がある書類も、内容を確認し、下書きを作り、夫の机へ置いたのは彼女だった。丈夫だから任されていたのではなく、断らずに引き受けてきたから、さらに仕事を積まれていたのである。
「奥様、朝食をお持ちしました。焼いたパンと山羊のチーズ、それから昨日の林檎で作った煮物でございます」
マーサが盆を机の隅へ置いた。甘く煮た林檎から肉桂の匂いが立ち、空腹だったエステルの腹が小さく鳴る。マーサは聞こえなかったふりをして、汚れた帳面の表紙を布で拭いた。
「マーサ、領民への支払いは今月分まで済ませます。使用人の給与も、三か月分を別の口座へ移してください」
「三か月分もですか」
「ええ。食料の発注先には、今後しばらく、料理長の署名だけで取引できるよう手紙を書きます。医薬品と薪も先に注文しておきましょう」
「奥様は、何をなさるおつもりですか」
エステルは煮林檎を一切れ食べた。肉桂の香りと強い甘みが舌に広がり、昨夜の冷えた人参よりずっとおいしかった。彼女は口元をナプキンで拭くと、六年間使い続けた羽根ペンを机へ置いた。
「夫の理想の妻になります」
「今でも十分すぎるほど立派な奥様でございます」
「いいえ。あの方がお好きなのは、立派な妻ではありません。守ってほしいと甘え、何もできないと言って胸を押さえる女性です」
「奥様には難しい役でございますね。大根役者でいらっしゃいますから」
「そこは励ますところでしょう」
二人は顔を見合わせ、エステルが先に吹き出した。マーサも鍵束を押さえながら肩を揺らし、笑い声が廊下へ漏れないよう口元を手で覆った。ひとしきり笑った後、エステルは支払いの書類へ署名し、最後の仕事を一つずつ片づけていった。
昼前、レイモンドが執務室へ入ってきた。昨夜遅くまで飲んでいたためか、髪は乱れ、白いシャツの釦を一つ掛け違えている。彼は机の上に積まれた帳簿を見ても興味を示さず、今夜の晩餐にはリリアの好きな白身魚を用意するよう命じた。エステルは椅子から立ち上がり、マーサへ目配せしてから額に手を当てた。
「あら……」
「どうした」
「急に目の前が暗くなってしまいましたわ」
エステルは右へよろめこうとして机の角があることに気づき、慌てて左へよろめいた。動きが不自然になり、マーサが後ろで咳払いをして笑いを隠す。レイモンドは疑わしそうに眉を寄せたが、エステルは構わず夫の腕へ両手を伸ばした。
「レイモンド様、わたくし、急に体が弱くなってしまったようですの」
「昨日まで元気だっただろう」
「丈夫な女性は、一生丈夫でいなければなりませんの?」
「そういう意味ではないが……医者を呼ぶほどなのか」
「まあ。リリアには湖畔の散歩までして差し上げたのに、妻にはお医者様も呼んでくださらないのですね」
レイモンドは口を開いたまま言葉を失った。エステルは夫の腕へ体重を預けながら、机の上に残った最後の書類を見た。もう領民も使用人も困らない準備は整っており、あとは夫が自分の仕事と向き合うだけだった。
「とにかく寝室へ戻れ。仕事は体調がよくなってからでいい」
「ええ、そうさせていただきます。いつよくなるかは、わたくしにも分かりませんけれど」
エステルはレイモンドに支えられながら執務室を出た。廊下へ出たところで、マーサが後ろから分厚い帳簿を一冊持ち上げ、これも寝室へ運ぶのかと目で尋ねる。エステルは弱々しく首を横へ振り、今まで誰にも渡さなかった帳簿を、夫の机の上へ残した。




