【明治編】還ってきた西郷10
太平治丸の右舷に、春日丸のカッターが寄せられた。
太平治丸の甲板には、船長と見張り以外の乗組員はいなかった。大久保が下げさせていた。
黒い海坊主からやってきた四人が、縄梯子を伝って太平治丸へ上がってくる。
最初に甲板へ上がったのは、西郷吉之助であった。
大柄な体、太い眉、だが、その服装は薩摩のものではない。
和装のようではあるが、見慣れぬ衣をまとっていた。
西郷が、語りだす。
「一蔵どん」
「吉之助さあ」
大久保は歩き出した。
歩くというより、よろめくように西郷へ近づいた。
そして、二人は抱き合った。
内務卿でもない。
異国の王でもない。
薩摩の友同士であった。
大久保は、大粒の涙を流していた。
「吉之助さあ……おじゃったもんせ」
声が震える。
「お帰り」
西郷も大久保の背に腕を回した。
「一蔵どん」
「一人にして、悪かったでごわす」
二十年分の恨みも、寂しさも、怒りも、安堵も、すべて涙になって落ちていった。
*
「吉之助どん」
川路が、口を開く、その目はすでに取り調べモードである。
「あの、そのお二方は……」
無理もなかった。
一人は、黒猫のような耳と尾を持つ獣人。
もう一人は、明らかに西洋人の男である。
西郷は、大久保の背から手を離し、二人を振り返った。
「こちらは、おいの秘書のミケどん」
黒猫の獣人は、丁寧に頭を下げた。
「ミケと申します」
「おお」
大山巌が、思わず声を漏らした。
「獣が語っておる」
ミケの耳が、ぴくりと動いた。
西郷は笑う、
「そして、こちらはトマス・グレイどん
元英国海軍、軍艦パーシュースの船員でごわす」
その瞬間、甲板の空気が変わった。
大山はまだ、ミケの耳を見ていた。
だが、大久保、勝、川路の三人は、別の言葉に反応する。
元英国海軍。
軍艦パーシュース。
薩英戦争で、錦江湾に沈んだ船。
獣人よりも、はるかに厄介なものが、いま目の前にいる。
「……英国海軍だと」
勝が呟く。
トマス・グレイは、胸に手を当てた。
「元、でごわす」
その日本語、いや鹿児島弁は意味は伝わった。
「私は今、西郷陛下の臣下でごわす。」
*
大久保は、トマス・グレイを見つめたまま、ほんの数秒で判断した。
この爆弾を処理できる役所など、日本にはまだ存在しない。
「ここで話すことではなか」
大久保は川路に言う。
「人目を避けるべきです」
「吉之助さあ。ひとまず仙巌園へ入ってもらいもす」
「仙巌園へ?」
「島津家の屋敷なら警備もできる。海坊主にも近か。おはんらの宿も用意できる」
「じゃっどん、まずは仙巌園じゃ。おはんの話を聞かんことには、何も始まらん」
西郷はうなずいた。
「分かりもした」
大久保は川路へ向き直った。
「川路」
「はっ」
「港には入れん。仙巌園の船着き場へ直接回す。見物人を近づけるな」
「承知」
「勝さん」
「何だい」
「海軍には、国籍不明船代表団を島津家施設で保護中、とだけ伝えてくいやい」
「西郷の名は出すな、か」
「まだ出せん」
「東郷」
「はっ」
「引き続き、海坊主の警備を頼む。人を近づけさせるな」
「承知いたしもした」
「それと、食料の補充も必要じゃ。品目は後で吉之助さあに聞く」
「東郷、もうひとつ。吉野の若に手旗信号を送れ。屋敷の準備とタグボートの派遣を頼んでくいやい」
「おはんが直接送れ。事情を知る者を増やすな」
東郷は一瞬だけ、黒い海坊主を見た。
あの艦には、自分らの想像も及ばぬ者が乗っている。
何を食うのかすら、分からない。
「……承知いたしもした」
大久保は、黒い海坊主を見た。
「この国は、まだ吉之助さあの帰還に耐えられん」




