【明治編】還ってきた西郷9
ここは、黒い海坊主の背中の上である。
「吉之助どん」
東郷平八郎が、西郷へ声をかけた。
「大久保卿を乗せた太平治丸が来たようでごわす。大久保卿の船まで、お送りしもんそ」
太平治丸が錦江湾へ入る予定時刻に合わせ、鹿児島鎮台は先回りして、春日丸を海坊主へ派遣していた。
西郷は、錦江湾の朝靄の向こうを見た。
黒煙を吐きながら、蒸気艦が近づいてくる。
その船体は、薩摩の船にしては大きく、重く、そして見覚えのない威容を持っていた。
「ごったましか、船でごわすな」※ごったましい 丈夫な、ごてごてしたの意味の鹿児島弁
西郷は、目を見開く
「ありゃあ、イギリスから分捕った船でごわすか」
東郷がうなずく。
「はい。太平治丸。今は大日本海軍の艦でごわす」
西郷は、しばらく黙ってその船を見ていた。
薩摩は、強くなった。
自分が海へ消えたあの日には、まだ届かなかったものに、薩摩は手をかけていた。
「太平治丸、か」
西郷は、小さく笑った。
「薩摩も、ずいぶん遠くまで来たもんじゃ」
「一蔵どんは、怒っちょるじゃろうか」
東郷は、少しだけ言葉に迷った。
「怒っておられるかは、分かりもはん」
「そうか」
西郷は、太平治丸を見つめたまま言った。
「じゃっどん、泣いちょるじゃろうな」
東郷は、答えられなかった。
西郷は苦笑した。
「一蔵どんは、怒る前に泣く男じゃ」
*
「吉之助どん、こちらに」
春日丸の手漕ぎカッターに西郷と従者ミケ、あと一人の従者と思われる男を案内する。
「こちらの方は」
東郷が、もう一人の従者へ目を向けた。
背の高い男であった。
髪は淡い金色。
顔立ちは明らかに西洋人である。
だが、着ている服は英国海軍のものではなかった。
日本のものでもない。
西郷は、紹介する。
「トマス・グレイどんでごわす」
男は胸に手を当て、丁寧に頭を下げた。
「元、英国海軍軍艦パーシュース乗組員。トマス・グレイです」
東郷の顔色が変わった。
パーシュース。
薩英戦争の折、錦江湾に沈んだ英国艦。
その名を、薩摩の海軍士官が知らぬはずはない。
「砲撃の後、海へ落ちました。そして、パーシュースと共に陛下の国へ流れ着きました」
東郷は西郷を見た。何という爆弾を連れてきたのか、と目が言っていた。
「この者は、向こうで妻を迎え、子もおいもす」
トマス・グレイは、まっすぐ東郷を見た。
「英国へ帰ることを望んではおりません。私は今、わが王 西郷殿下の臣下です」
その言葉は、丁寧であったが、重かった。
東郷は、この男の存在そのものが外交問題であることを理解した。
英国海軍の行方不明者。
薩摩が沈めた艦の生存者。
そして今は、異国の王を名乗る西郷吉之助の臣下。
錦江湾は、西郷吉之助だけを返したのではなかった。




