【明治編】還ってきた西郷8
西郷が錦江湾に現れてから、三日目の朝。
大日本海軍の蒸気艦、太平治丸が、単艦で錦江湾へ入った。
船首が朝靄を割る。
黒い煙が、桜島の方へ流れていく。
太平治丸には、内務卿大久保利通が乗っていた。
そのほかにも、旧薩摩藩士の政府高官、旧幕臣出身の官僚、海軍士官、陸軍関係者が同乗していた。
だが、真相を知らされている者は少ない。
彼らの多くは、こう聞かされていた。
鹿児島湾内に、国籍不明の外国船が出現した。
金属製と思われる未確認艦である。
島津丸十字旗を掲げている。
異国の王を名乗る人物が、日本政府との接触を求めている。
それだけである。
西郷吉之助の名は、伏せられていた。
大久保が伏せたのだ。
この国は、まだ西郷吉之助の帰還に耐えられない。
そう判断したからである。
甲板の上で、旧幕臣出身の官僚が、遠くに浮かぶ黒い船影を見つめていた。
「……あれが、不審船ですか」
誰かが言った。
錦江湾の奥に、黒い海坊主が浮かんでいる。
その上に、白地に丸十字の旗が翻っていた。
大久保利通は、手すりを強く握りしめる。
二十年待った。いや二十年、待たされた。
そして今、あの黒い船の上に、友がいる。
大久保は、誰にも聞こえないほど小さくつぶやいた。
「吉之助さあ……」
太平治丸は、ゆっくりと黒い海坊主へ近づいていった。
「まるで、鯨のようですね」
双眼鏡を覗きながらその男が呟く。
大久保が信頼する治安担当として連れてきた男、川路利良。
だが、彼はまだ知らない。あの黒い鯨の主が、西郷吉之助であることを。
「本当にまるで鯨だな
いや、ありゃあ、海を潜れるのではないか」
勝海舟が双眼鏡を覗きながら呟く、
海軍、そして外交の担当者として、大久保が声をかけた男、
薩摩閥ではないため薩摩へ連れて行くか、最後まで横浜までの汽車の中で判断を迷った末に
横浜で声を掛けた。
「武装らしきものが見えん」
「砲門もない。砲架も見えん。軍艦ではないのか?いやしかし商船ではない明らかに軍艦だ。
潜って錦江湾まで進入して浮上したのか?これは軍事的な脅威じゃ」
私物の双眼鏡を覗きその男が言った。
陸軍枠であり、西郷の親族枠として連れてこられた男、大山巌。
「まるで海坊主ですな、大山少将」
海坊主の主が誰であるかを、偶然知ってしまった男、別府晋介。
大久保から口止めされている。されているのだが。
別府の口元は、どうにも緩みそうになっていた。
「別府」
大久保が別府に語る。
「はっ」
「笑うな」
「……笑ってはおりもはん」
「顔が笑うちょる」
勝海舟が、そのやり取りを横目で見た。
そして、双眼鏡から目を離さずに言った。
「大久保さん」
「何か?」
「あんた、何か知ってるな」
「…ああ、皆、こちらへ」
大久保が、四人を集めた。
「…皆に黙っていて、すまなかった」
大久保は、黒い海坊主を見つめたまま言った。
「あの船の大将は、西郷吉之助を名乗っちょる」
一瞬、誰も動かなかった。
「しかも、自称、異国の王としてな」
「十年前、横須賀で馬鹿でかい大砲を撃った船。その元になった男の名か」
勝にとって、西郷吉之助とは、まだ会ったことのない薩摩の巨人である。
そして同時に、自分の海を破った船に刻まれていた名でもあった。
「西郷丸」
勝は、黒い海坊主を見た。
「今度は本人が、海から出てきたってわけか」
その言葉で、ようやく大山巌が息をした。
「吉之助どんが……?」
別府晋介も、押し殺していた声を漏らした。
「吉之助どんが……」
二人の声が、ほとんど重なった。
大久保は、静かにうなずいた。
「まだ本人と決まったわけではなか」
そう言いながら、大久保の手は、手すりを強く握っていた。
「じゃっどん、おいは、そう思っちょる」
太平治丸は、さらに黒い海坊主へ近づいていく。
海坊主の上では、大男が手を振っていた。
大山が双眼鏡を覗いたまま、息を詰めた。
「……あれは
…吉之助どんじゃ。確かに、吉之助どんじゃ」
川路もまた、双眼鏡を下ろせなかった。
「まことに……西郷吉之助さあが……」
その瞬間、大久保利通は、もう内務卿ではなかった。
政府高官でもなかった。
二十年ぶりに友を見つけた男だった。
「おおーい!」
大久保は、甲板から身を乗り出すようにして叫んだ。
「吉之助さあーー!」
その声は、錦江湾の朝の海へ、まっすぐに飛んでいった。




