【明治編】還ってきた西郷1
明治10年
錦江湾
練習艦春日丸。
旧薩摩海軍の中型蒸気軍艦であり、いまは日本海軍の練習艦である。
艦長は、旧薩摩海軍出身の海軍少佐。中村
そして副長心得が、東郷平八郎であった。
本来であれば、彼は数年前に英国へ留学しているはずだった。
だが、この世界には、その道を押し開いてくれる西郷吉之助がいなかった。
ゆえに東郷は、日本の海で鍛えられていた。
横須賀で。
品川沖で。
そして、錦江湾で。
*
早朝、錦江湾。
薄明かりの海に、漁師が一人、小舟を出していた。
まだ他の船影はない。
一番乗りである。
漁師はいつものように、きびなご漁の準備をしていた。
網を確かめ、櫂を置き、潮の流れを見ていた。
その時である。
海面が、不自然に盛り上がった。
ごぼり、と音がした。
次の瞬間、黒い物体が水飛沫を上げて、海中から浮上してきた。
クジラではない。
イルカでもない。
それは、まるで巨大な黒い亀のようだった。
「ひえええっ、ひったまがった!」
漁師は腰を抜かしかけた。
「海坊主じゃあ!」
黒い海坊主の背に、扉のようなものが開いた。
中から、大柄な男が一人、姿を現す。
男は濡れた甲板の上に立ち、まるでマストのような細い柱に、ゆっくりと旗を掲げた。
朝風を受けて、旗が開く。
白地に、丸十字。
*
同じころ。
練習艦春日丸。
その上に翻る旗を見た瞬間、東郷は息を止めた。
「……丸十字」
白地に丸十字。
島津の旗である。
だが、問題は旗だけではなかった。
見張り員が手旗信号を送る。
返事はない。
もう一度、送る。
やはり返事はない。
黒い海坊主の上では、大柄な男が一人、こちらに向かって必死に手を振っていた。
東郷は双眼鏡を握りしめた。
その顔に、見覚えがあった。
いや、見覚えがあるはずがない。
あるはずがないのに、東郷の口は勝手に動いていた。
「……吉之助どん…?」
それは、二十年前、まさにこの海で消えた男に似ていた。
西郷吉之助。
東郷にとって血縁の近い相手ではない。
だが、加治屋町で育った薩摩の少年にとって、その名は遠い親戚よりも近かった。
幼いころから見上げていた、大きな背中。
薩摩の者なら誰もが知る、海に消えた男。
東郷の口は、勝手に動いていた。
「……吉之助どん」
艦長席へ振り返る。
「艦長。あの男は……西郷吉之助どんに似ておいもす」
艦長の中村少佐は、東郷の顔を見た。
もちろん、中村も元薩摩藩士である。
この錦江湾で消えた男の名を、知らぬはずがなかった。
「西郷吉之助、だと」
「はい」
艦橋に、沈黙が落ちた。
波の音だけが聞こえた。
やがて中村少佐は、短く命じた。
「カッター用意」
甲板の水兵たちが、一斉に動き出す。
「右舷から下ろせ。東郷」
「はっ」
「お前が行け。その西郷らしき男と、話をしてこい」
東郷は、もう一度、黒い海坊主の上を見た。
男はまだ、こちらに向かって手を振っていた。
まるで二十年分の時間を、今さら取り戻そうとするように。
*
東郷が指揮するカッターが黒い海坊主に近づく
まるでクジラのような流線形、大きさは春日丸より大きい、水上に見えている範囲で60メートルだろうか、
おそらく全体が、金属製、機関を全停止しているのか、無音。
海上では、若き水兵たちがオールを漕ぐ掛け声と、オールが水を切る音だけが聞こえていた。
日の出直後の錦江湾。
海坊主の左舷に、カッターを付ける、大柄な男が近寄る、
東郷は大声で声を掛ける
「貴艦の国籍と、目的をお伺いいたしもす」
東郷がその男の顔を確認すると、目から涙が溢れ出す。
「吉之助どん…。」
声が震えた。
「……西郷吉之助どんで、あらせられもすか」
大男は、東郷を見下ろした。
しばらく、黙っていた。
そして、少し困ったように眉を寄せた。
「すまん。どちら様でごわすか」
東郷は、一瞬だけ言葉を失った。
無理もなかった。
この男が錦江湾に消えた時、自分はまだ十ばかりの子供だった。
西郷吉之助にとって、東郷平八郎は、近所を走り回る少年の一人にすぎなかったのだ。
東郷は、背筋を伸ばした。
「加治屋町の東郷仲五郎の倅、平八郎でごわす」
西郷の大きな目が、さらに大きく開く。
「……東郷の、平八郎?」
「はい」
「おはん、あの鼻垂れ小僧の平八郎か」
「今は船乗りで、ごわす」
「はっはっはっ! そうか、そうか。おはんが、もうりっぱな海軍の船乗りか」
東郷は、敬礼した。
「西郷吉之助どん。お帰りなさいもした」
西郷は、その言葉を聞いた瞬間、笑みを消した。
そして、ゆっくりと錦江湾を見回した。
「……帰って、きたとじゃな」
朝の海が、静かに揺れていた。
*
「艦長」
春日丸へ戻った東郷は、中村少佐へ報告を入れた。
「黒い海坊主の上にいた男は、西郷吉之助どんでありました」
艦橋の空気が止まった。
「本人か」
「はい。少なくとも、東郷平八郎はそう判断いたしもす」
東郷は一度、言葉を切った。
「ただし、ひとつ問題がありもす」
「問題?」
「吉之助どんは、異国の王を名乗っております」
中村少佐は、眉間に皺を寄せた。
「異国の、王」
「はい。つまりは……これは領海侵犯でありますでしょうか」
誰も、すぐには答えられなかった。
艦長も、東郷も、錦江湾内に異国の船が浮上した場合の対応など、考えたこともなかった。
ましてや、その船の上に立っているのが、二十年前にこの海で消えた西郷吉之助なのだ。
ただの不審船ではない。
ただの帰還者でもない。
薩摩の西郷であり、異国の王であり、日本の領海に現れた未確認の金属艦であった。
「……春日丸は、これより鹿児島港へ戻る」
中村少佐は短く命じた。
「信号旗を上げろ。全速帰港。鹿児島鎮台、ならびに島津家へ急報」
「東京へは」
東郷が問う。
中村少佐は、黒い海坊主の上に立つ男を見た。
二十年前に消えたはずの、西郷吉之助。
その姿を見てから、静かに答えた。
「港に戻り次第、電信を打つ」
まだ、海の上から東京へ言葉を飛ばす術はない。
だが、陸へ上がれば違う。
薩摩が、江戸を焼け跡から東京へ変えた十年。
その十年で、日本には鉄道が走り、電信線が張られていた。
錦江湾で起きた奇跡は、銅線を伝って東京へ走ることになる。




