【明治編】新都市 東京
慶応二年の江戸城無血開城によって、徳川の時代は終わった。
だが、その日に新しい政府が生まれたわけではない。
国というものは、御旗を掲げればその場で動き出すほど単純ではない、
国の営み、生活の営みが慣性で動いている。
そのすべてを、ある日突然「幕府は終わった」の一言で止めるわけにはいかなかった。
ゆえに、徳川幕府はしばらくの間、存在し続けた。
ただし、将軍はいない。
次の将軍も立てられない。
徳川の名を残したまま、実際に国を動かしていたのは、朝廷の委任を受けた薩摩、土佐、越前、そして旧幕臣たちであった。
島津久光は、形式上は幕府参与であった。
大久保一蔵もまた、幕府の役職を帯びて江戸にいた。
薩摩藩士でありながら、幕臣として江戸を立て直す。
それは奇妙な身分であった。
だが、焼けた江戸を前にして、身分の奇妙さを気にしている者などいなかった。
必要なのは、名分ではない。
明日の米と、明日の道と、明日の役所だった。
*
西暦一八六八年十月二十三日。
明治天皇は「一世一元の詔」を発布し、慶応は明治へ改元された。
明治元年九月八日のことである。
しかし、明治天皇は、いまだ復興途上にあった東京へは行幸しなかった。
首都は、京都のままであった。
東京は、首都ではない。
だが、ただの旧江戸でもない。
焼け野原から作り直されつつある、新しい政務都市であった。
明治三年。
永田町に、国会議事堂が完成する。
その制度は、イギリスの議会制度を参考にしたものであった。
元大名、公家、維新功労者を集めた貴族院。
一定額以上の納税を行う男子が選挙権と被選挙権を持つ、制限選挙を基礎とした衆議院。
京都には天皇と朝廷があり、東京には議会と行政がある。
二つの都を持つ国。
日本は、そうして始まった。
*
明治八年。
東京には、馬車鉄道が走っていた。
大通りを人力車が行き交い、馬車が荷を運び、商店には人があふれていた。
焼け野原だった町は、もう灰の町ではなかった。
東京を東西南北に貫く鉄道は、毎日黒煙を吐きながら、人と物資を運んでいた。
横須賀では、旧幕臣の勝海舟や小栗上野介らが、製鉄所と造船所を立ち上げていた。
薩摩の資金。
旧幕府の技術。
英国から奪い、学び、買い集めた知識。
それらが混ざり合い、日本の海軍は急速に姿を変えていった。
鹿児島では、島津重工業が蒸気機関を作り、船を作り、工作機械を作っていた。
横須賀では、その技術を受けて、さらに大きな船が作られていた。
そして日本全国の都市で、蒸気機関が動き始めていた。
西郷吉之助のいない十年。
その十年で、日本は、異様な速度で近代へ踏み込んでいた。
*
明治十年。
江戸は、もう焼け野原ではなかった。
そこには、新しい都、東京があった。
十二年前、黒い地面と煙だけが広がっていた場所には、役所が建ち、道路が通り、人が歩いていた。
焼けた町は、もう一度立ち上がった。
ここは旧江戸城、本丸跡。
内務省、内務卿執務室。
大久保利通は、机に積まれた書類から目を離し、ふと天井を見上げていた。
あの日、海に消えた男のことを思い出していた。
「吉之助さあ……おまんさあがおらんくなってから、もう二十年近くになりもす」
深いため息が、執務室に落ちた。
「もう、疲れたもした」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
だが、その場には一人、聞く者がいた。
陸軍から訪問していた別府晋介である。
大久保は、ぽつりとこぼした。
「晋どん。もう、ここらでよか」
別府晋介は、ぎょっとしたように顔を上げた。
「何を仰る、内務卿」
そしてすぐに、言い直した。
「いや、一蔵どん。おまんさあがおったから、東京も立ち上がりもした。新政府もうまく回りだした。これからの日本を引っ張るのも、一蔵どんしかおらん」
大久保は、苦く笑った。
「そう言うて、みなが仕事を持ってきもす」
「それだけ頼られちょるということごわす」
「頼られちょる、か」
大久保は、机の上の書類に視線を落とした。
東京再建。
鉄道。
租税。
地租改正。
学校。
警察。
軍制。
不平士族。
士族授産。
北海道。
琉球。
朝鮮。
清国。
すべてが、大久保利通の机の上にあった。
「吉之助さあがおったら、半分は背負うてくれたじゃろうか」
別府は、すぐには答えられなかった。
大久保は、静かに笑った。
「いや、違うな。あの人なら、半分どころか、全部背負おうとしもす。そして、おいが止める」
その笑みは、懐かしむようで、悔いるようでもあった。
「もう、東京は立ち上がりもした。新政府も、どうにか回り出した」
大久保は、窓の外へ目を向けた。
丸の内では、陸軍が演習を行っていた。
そのはるか向こうでは、走る蒸気機関車が黒煙を吐いていた。
十年前、焼け跡だった場所に、軍があり、鉄道があり、役所があり、人の暮らしがあった。
「おいは一度、鹿児島へ帰りもす」
別府晋介は、息を呑んだ。
「鹿児島へ、でごわすか」
「吉之助さあが帰ってくるなら、あの海じゃろう」
大久保は、静かに言った。
「花倉の、あそこに家を建ててな」
花倉。
吉之助が海へ消え、月照が息を吹き返した場所。
大久保にとっては、国を作るための十年が始まった場所であり、友を失った場所でもあった。
その声は、内務卿のものではなかった。
「吉之助さあを、待ちもうす」
別府は、すぐには返事ができなかった。
その言葉が、あまりにも長い年月の果てに出たものだと、分かってしまったからである。




