【現代異世界編】『よいこの はじめての ちぇすと飛行』1
彼女、前田コヨミは、箒の家庭教師である。
これまで教えてきた生徒は、おそらく数千人を超える。
貴族の子。商家の子。軍人の子。
泣き虫もいれば、怖がりもいた。
最初から調子に乗って木に突っ込む子もいた。
菊池西郷家の長男、源吾も、幼いころ彼女が箒を教えた教え子の一人だった。
ある日、その菊池西郷家から呼び出しがあった。
箒に乗ったことがない者に、箒の乗り方を教えてほしい。
そういう依頼だった。
最近は、親が子に直接箒を教える家も増えている。
副業として箒の家庭教師をしているコヨミにとって、貴族家からの正式な指名は久しぶりだった。
しかも、菊池西郷家である。
コヨミは、朝から少し浮かれていた。
かばんに入れたのは、子供向けの箒教本。
『よいこの はじめての ちぇすと飛行』
帯には、こう書かれている。
――いっそ、敵の首を斬るまで、箒から降りてはなりもはん。
教育に良いのか悪いのか、よく分からない一文である。
それでも、昔からよく売れている定番教材だった。
水筒には、自分で淹れたお茶。
背中には、子供用の小さな練習箒を二本。
準備は万端である。
「さて、久しぶりの貴族家のお仕事でごわす」
コヨミは上機嫌で自宅を出た。
そして箒にまたがり、菊池西郷家へ向かった。
箒での飛行。
この世界では、自転車に乗る程度には身近な移動手段である。
一定の高度以下で、禁止空域でなければ、基本的には誰でも飛ぶことができる。
ただし、魔法適性がなければ難しい。
魔法適性には、大きく分けて二つある。
一つは魔力量。
人体から外へ出力できる魔法の総量である。
もう一つは、魔法制御能力。
魔力を細かく出力し、箒に発生する力場を制御する能力である。
魔力量が少ない者は高く飛べない。
制御能力が低い者は、まっすぐ飛べない。
だが、どちらも一定以上あれば、箒は飛ぶ。
少なくとも、コヨミはそう教えてきた。
この時の彼女は、まだ知らない。
今日の生徒が、子供ではないことを。
そして、一時間後。
自分の知らない機動で空を舞い、箒の常識を破壊する女に出会うことを。
*
コヨミが屋敷に着くと、出迎えたのは源吾だった。
「先生、お久しぶりでごわす」
「まあまあ、源吾坊ちゃま。立派になられて」
懐かしい教え子の成長に、コヨミは目を細めた。
「今日の生徒は、こちらでごわす」
源吾がそう言って示した先にいたのは、三十一歳の女性だった。
「……お子様は?」
「私です」
その女性は、真顔で言った。
「私に、飛び方を教えてください。箒の」
「……はい?」
コヨミは混乱した。
この世界で、箒に乗れない人間など、ほとんど見たことがない。
ましてや、これだけの年齢まで一度も飛んだことがないなど、普通では考えにくい。
よほどの方向音痴か。
あるいは、何か深い事情を抱えているに違いない。
コヨミは、そう判断した。
「えっと……あなた、箒に乗った経験は?」
「小さいころ、地球で『魔女の〇急便』を見たあと、またがったことはあります。でも、飛べませんでした」
「地球? 魔女の〇急便?」
コヨミは首をかしげた。
よく分からない。
だが、一つだけ分かった。
この人は、本当に飛べない。
コヨミは、かばんから教本を取り出した。
「では、この絵本を差し上げます。今日はこれをよく読んで、感想文を書いてきてください。また明日、基礎から始めましょう」
千尋は、謎の本を受け取った。
タイトルは、
『よいこの はじめての ちぇすと飛行』
帯には、こう書かれている。
――いっそ、敵の首を斬るまで、箒から降りてはなりもはん。
千尋は、しばらく表紙を見つめた。
「ちょっと、先生殿」
源吾が、低い声でコヨミを止めた。
「坊ちゃま」
コヨミは、少し怒ったように言った。
「大きくなってからも飛んだことがない女性など、どこで拾ってこられたのですか。いい加減にしてください」
「先生」
千尋が、静かに口を開いた。
「私の総飛行時間は、四千時間を超えます」
「……はい?」
「分かりました。この絵本を熟読してきます。明日、よろしくお願いします」
千尋は、深々と頭を下げた。
コヨミは、完全に固まった。
四千時間。
箒に乗れない女が、飛行時間四千時間。
この日、前田コヨミは初めて知ることになる。
空を飛ぶ者にも、いろいろいるのだと。




