【現代編】たいげい型潜水艦なんげい2
夜、なんげいは山川港を出港した。
港の灯りが後方へ流れていく。
鹿児島の夜景が遠ざかり、黒い錦江湾が艦を呑み込む。
出港して間もなく、なんげいは潜航を開始した。
艦内放送が流れる。
『ああ、艦長だ』
妙に気の抜けた声だった。
『本来であれば、今回は吉野千尋三等海佐を迎えての、対潜哨戒対応訓練を実施する予定であった』
千尋は、思わず顔を上げた。
本来であれば?
『しかし本艦はこれより、台湾所在の秘密ドックへの入港訓練を行う。各員、通常どおり任務に当たれ』
一拍置いて、艦長は付け加えた。
『ああ、以上。各員の健闘を祈る』
放送が切れた。
「台湾の秘密ドック?」
千尋は、源吾を見た。
源吾は、にこりと笑っただけだった。
その笑い方が、非常に腹立たしかった。
しばらくして、千尋と源吾は指令所へ向かった。
おかしい。
入った瞬間、千尋はそう思った。
人が少なすぎる。
指令所にいるのは、艦長、副長、操舵員、聴測員。
それに数名の当直員だけだった。
千尋が知っている潜水艦の指令所に比べると、明らかに密度が低い。
いや、錦江湾内の短距離移動だからか。
あるいは、訓練用の特別体制なのか。
千尋は、無理やりそう納得することにした。
電子海図を見る。
現在位置は、錦江湾の中央付近。
台湾へ向かうなら、このまま湾口へ向かうはずだった。
外洋へ出て、南西諸島方面へ進むはずだった。
しかし艦長は、静かに命じた。
「行先、ポイント西郷」
操舵員が復唱する。
「行先、ポイント西郷」
なんげいは、ゆっくりと進路を変えた。
千尋は電子海図を見た。
錦江湾を、北上している。
「……え?ポイント西郷」
台湾ではない。
外洋でもない。
この進路は、鹿児島市の方角だ。
いや、もっと正確に言えば。
錦江湾の奥。
千尋は、艦長を見た。
「台湾では?」
艦長は答えなかった。
副長も答えなかった。
源吾も答えなかった。
指令所にいる全員が、ただ静かに微笑んでいた。
その笑顔を見て、千尋はようやく理解した。
この艦の中で、何も知らないのは。
たぶん、自分だけだ。
*
「ポイント西郷、ゲート前到着」
聴測員の声が、静かに響いた。
「ゲート前、到着」
艦長がうなずく。
「福山へ連絡。ゲートオープンを要請」
「福山へ連絡。ゲートオープンを要請」
福山。
千尋は、その地名に反応した。
錦江湾奥、福山。
実際、そこには護衛艦や潜水艦の発する音を測定する、鹿児島音響測定所がある。
鹿児島では、錦江湾を潜水艦が航行すること自体は、それほど珍しい光景ではない。
だが、ゲートオープンとは何だ。
目の前で、千尋の知らない専門用語が飛び交っている。
「……福山? 音響測定所のこと?」
誰も答えなかった。
「ゲートへ進入。微速前進」
「微速前進。ゲートへ進入」
なんげいが、ゆっくりと進む。
「ゲート通過」
その瞬間だった。
千尋の身体の内側で、何かがずれた。
まるで空間識失調――バーティゴに陥ったような感覚。
どちらが上で、どちらが下なのか。
自分が前へ進んでいるのか、落ちているのか、浮いているのか。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬で、千尋は思わず手すりを掴んだ。
「……っ」
源吾が、楽しそうに笑った。
「はは。さすが千尋。感じもしたか」
「何を」
「境界でごわす」
源吾は笑っていたが、艦長は真顔で千尋を見ていた。
「吉野三佐、大丈夫ですか」
「……大丈夫です」
たぶん、大丈夫ではない。
だが、そう答えるしかなかった。
周囲を見る。
艦長も、副長も、操舵員も、聴測員も、平然としている。
今の感覚を覚えたのは、自分だけなのだろうか。
「海図変更」
艦長が命じた。
副長が電子海図装置の横に立つ。
装置側面の点検口に鍵を差し込み、ひねる。
小さなカバーが開き、そこに暗証番号のようなものを入力した。
電子海図が、一瞬だけ暗転する。
そして、再表示された。
地形は、ほとんど変わっていない。
錦江湾に似た湾。
桜島に似た山影。
鹿児島市に似た海岸線。
だが、地名が違った。
艦長が言った。
「進路、サツマ本港、八番バース」
操舵員が復唱する。
「進路、サツマ本港、八番バース」
千尋は、電子海図を見た。
「……え?」
台湾ではない。
鹿児島市でもない。
だが、あまりにも鹿児島に似ている。
「台湾では?」
艦長は、少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「すまんが、吉野三佐。指令所で起きたことは、他の乗員には内密にしてほしい」
「は?」
「指令所に来ていない乗員は、本艦が台湾の秘密ドックへ向かっていると信じている
そもそも台湾に秘密ドックなんて無い、おそらくは。」
「は、はあ?」
「そういうことになっている」
「いや、そういうことって何ですか」
源吾が、横から穏やかに言った。
「ようこそ、千尋」
「どこに」
「サツマ帝国へ」
千尋は、もう一度、電子海図を見た。
サツマ本港。
八番バース。
そして、地球の鹿児島とよく似た、しかし確実に違う海岸線。
千尋は、ゆっくりと息を吐いた。
「……台湾秘密ドックって、便利な言葉ですね」
艦長が、少しだけ笑った。
「ええ。百年以上使われている、伝統ある便利な言葉です」




