30-5
絶望が、冷たい石の床から這い上がるように仲間たちを支配していた。
誰もが言葉を失い、己の無力さを噛み締めている。その中心で、ミカゲは魂が抜け落ちた人形のように膝をついていた。彼の世界から、再び光が消え去ったのだ。
「また……同じことを……」
か細く、震える声がミカゲの唇から漏れる。
三百年前の悪夢と、今の現実が重なり合う。守ると誓った少女を、またしても絶望の淵に突き落とし、目の前で奪われた。
過去のトラウマと現在の後悔が、彼の心を完全に破壊しようとしていた。
その姿を、レオンハルトは燃えるような瞳で見つめていた。
エドウィンが見せた映像──ミカゲが背負ってきた、あまりにも永く、重い過去。
それを知ったからこそ、レオンハルトの心には、憐憫よりも先に、別の感情が燃え上がっていた。
次の瞬間、レオンハルトは大きく踏み込むと、無防備なミカゲの横顔を、力の限り殴り飛ばした。
「──ッ!?」
鈍い音と共に、ミカゲの身体が床に叩きつけられる。
突然の暴力に、セリウスたちが息を呑んだ。
「兄さん!何を……!」
セリウスが止めに入ろうとするが、レオンハルトはそれを手で制した。彼は床に倒れたミカゲを見下ろし、その青緑色の瞳には怒りの炎が宿っている。
「……立て、ミカゲ」
レオンハルトの声は、地を這うように低かった。
「……」
ミカゲはゆっくりと顔を上げる。殴られた頬が赤く腫れ、唇の端からは血が流れていた。
だが、その黒曜石の瞳は、依然として虚ろなままだ。
「立てと言っている!いつまでそうやって、三百年前の亡霊に囚われているつもりだ!」
レオンハルトの咆哮が、ホールに響き渡る。
「お前が辛い過去を背負っているのは分かった!守れなかった女を今でも想っていることもな!だがな、ミカゲ!それでまふゆを諦める言い訳にしていいはずがないだろうが!」
レオンハルトはミカゲの胸ぐらを掴み、無理やり引き起こした。至近距離で、怒りに燃える瞳が、虚ろな瞳を射抜く。
「お前が過去の女の幻影を追っていたとして、それがどうした!まふゆがお前のことを想っていた気持ちは本物だ!お前と過ごした時間の中で、彼女が笑い、泣き、そしてお前を愛したことは、紛れもない事実なんだぞ!」
「……っ」
ミカゲの瞳が、わずかに揺れる。
「なのに、お前はなんだ!過去に囚われ、絶望し、また同じように諦めるのか!?また彼女を『ひとり』にするのか!それが、お前の愛した女に対する答えか!」
「レオンハルト様……」
リリアが涙声でその名をつぶやく。彼の言葉は、ミカゲだけでなく、絶望に打ちひしがれていた仲間たち全員の心を打っていた。
「いいか、ミカゲ。俺はまふゆのことが好きだ。お前に奪われた時、死ぬほど悔しかった。だが、それでも彼女が幸せなら、お前と笑い合えるなら、それでいいとさえ思った」
レオンハルトは一度言葉を切り、ミカゲの胸ぐらを掴む手に、さらに力を込めた。
「だが、今の貴様には、彼女を任せることなど断じてできん!彼女が絶望している時に、隣でそれ以上に絶望しているような腑抜けた男に、彼女を幸せにすることなどできるものか!」
レオンハルトはミカゲを突き放すように手を離した。
「……目を覚ませ、ミカゲ。お前が今すべきことは、過去に浸って絶望することじゃない。彼女が信じた『ミカゲ』として、今度こそ、その手で彼女を救い出すことだろ!」
その言葉は、雷鳴のように突き刺さる。絶望の闇に沈んでいたミカゲの心に、一つの小さな火種を灯した。
殴られた頬の痛みよりも、胸ぐらを掴まれた屈辱よりも、彼の言葉の一つ一つが、凍りついた思考を無理やり溶かしていく。
──また彼女を『ひとり』にするのか。
その問いが、三百年前の光景と今を繋ぎ、鋭い棘となってミカゲの胸に突き刺さった。
そうだ。
自分は、また同じ過ちを繰り返すところだった。絶望に浸り、全てを諦め、彼女を孤独の淵に置き去りにしようとしていた。
ゆっくりと、しかし確かな意志を持って、ミカゲは自らの足で立ち上がった。
その黒曜石の瞳には、まだ深い苦悩と迷いの色が渦巻いている。だが、その奥底で、レオンハルトの言葉によって灯された決意の炎が、静かに、しかし力強く燃え始めていた。
「……行くぞ」
ミカゲが、かすれた声で呟いた。
「どこへ……?」
セリウスが、その言葉の真意を問う。
「決まっている。白檻会の本拠地だ」
ミカゲは、まふゆたちが消えた扉を真っ直ぐに見据えながら、言い放った。
「まふゆとアリスを、取り返しに行く」
その言葉に、息を呑む空気が流れる。
しかし、それは白檻会の本拠地に殴り込みに行くという、あまりにも無謀な賭けだった。
この学園にいる者たちは、エドウィンの裏切りと白檻会の非道な正体を知ったかもしれない。だが、一歩外に出れば、世間一般にとって白檻会は「エルフを保護する崇高な組織」という、偽りの顔を保っている。
国さえも黙認する巨大な組織に、たった数人で乗り込むなど、自殺行為に等しい。
「……正気か、ミカゲ」
セリウスが冷静に、だが憂慮を隠せない声で言った。
「相手はただの犯罪組織じゃない。国を裏で動かすほどの力を持っているんだ。僕たちだけで乗り込んでも、返り討ちに遭うだけだ」
「それでも、行く」
ミカゲの決意は揺るがなかった。
「あいつが絶望している。俺のせいで。……今、行かなければ、俺は俺を一生許せない」
「あたしも行く!」
真っ先に声を上げたのはシャノンだった。彼女は涙を拭い、決然とした表情で立ち上がる。
「まふゆとアリスを、あんなやつらの好きにさせてたまるもんですか!」
「あーしも!あーしも行きますっ!」
リリアも、泣き腫らした目で必死に訴える。
「まふゆんがいないなんて、絶対に嫌!レオンハルト様、お願いします!」
仲間たちの視線が、リーダーであるレオンハルトへと集まる。
彼は、ミカゲの瞳に再び宿った光を確かめるように見つめると、ふっと口の端を上げた。
「……当然だ。俺の仲間が攫われて、黙って見ていられるほど人間ができちゃいないんでな」
レオンハルトは腰の剣の柄を強く握りしめる。
「セリウス、お前の言う通り、無謀な賭けだ。だがな、やらなきゃならない時ってのがある。それが今だ」
兄の言葉に、セリウスは静かに目を伏せた。そして、再び顔を上げた時、その瞳には迷いはなかった。
「……分かったよ。兄さんがそう決めたのなら、僕も最後まで付き合う。必ず、二人を助け出そう」
全員の意志が、一つになった。
たとえ世界を敵に回すことになろうとも、大切な仲間を救い出す。
その決意が、絶望に満ちていたホールに、確かな希望の光を灯した。
「よし、決まりだ」
レオンハルトが力強く宣言する。
「これより、王立特異能力者統合学園一年A組及び有志一同は、白檻会に対し、全面戦争を布告する!目標はただ一つ、まふゆとアリスの奪還だ!」
その声は、これから始まる長く険しい戦いの、始まりの狼煙となった。




