30-2
ガタガタと揺れる馬車の中、まふゆは意識を閉ざすようにただ目を伏せていた。
隣にいるアリスの小さな温もりだけが、自分がまだこの忌まわしい現実につながっていることを示している。
もう、何も考えたくなかった。何も感じたくなかった。
その時だった。
「──ねえ」
背中に寄りかかっていたはずのアリスから、今まで聞いたことのない、凛としていながらどこか妖艶さを感じさせる声が聞こえた。
それは、子供であるアリスの声とは似ても似つかない、女性の声。
ハッとして隣を見ると、まふゆは息を呑んだ。
そこにいたのは、アリスではなかった。
金髪だったはずの髪は、月光を吸い込んだかのように清らかな白髪に変わり、薄青だった瞳は、自分と同じ、深い菫色に染まっている。
なにより、その顔立ちは──驚くほど、自分に似ていた。
いや、違う。
どこか憂いを帯びたその表情は、先程ミカゲの記憶の中で見た、あの姫君。
「……ユキ、さん……?」
かすれた声で呟くと、"彼女"はくすりと蠱惑的に微笑んだ。その仕草は、無垢なアリスからは到底考えられないものだった。
「ええ、そうよ。アリスの身体を少しだけ借りているの。あの子も私の一部みたいなものだから」
ユキは、まるで旧知の友人に語りかけるように、自然な口調で続ける。
「酷い顔ね、まふゆ。せっかくの綺麗な顔が台無しだわ」
「……なんで、うちの目の前に……」
「決まっているでしょう? あなたに伝えたいことがあるからよ」
ユキはまふゆの顔を覗き込むように、その菫色の瞳を細めた。その瞳の奥には、憐憫とも嘲笑ともつかない、複雑な色が揺らめいている。
「あなたは、彼が私を忘れられずに、あなたを代用品にしたと思っている。違うかしら?」
図星を突かれ、まふゆは唇を噛んだ。
そうだ。その通りだ。だから自分はこんなにも惨めで、虚しくて、息もできないほど苦しいのだ。
「……面白いわ。三百年間、彼を縛り付けてきたのは私。そして今、彼を絶望させているのも、また私だなんて」
ユキは楽しそうに、しかしどこか寂しそうに言った。
「でもね、まふゆ。本当にそうかしら?彼があなたに向けた感情は、本当に全て偽物だったのかしら?」
「……もう、やめて……」
まふゆは耳を塞ぎたかった。これ以上、心を掻き乱されたくない。
だが、ユキは容赦しなかった。彼女はまふゆの顎にそっと指を添え、無理やり顔を上げさせる。その瞳は真剣そのものだった。
「賭けをしましょう」
「……賭け?」
「ええ。私とあなたで、賭けをするの」
ユキの唇が、美しい三日月の形に歪んだ。
「彼が本当に愛しているのは、三百年間忘れられなかった初恋の女、この私か。それとも──彼の凍てついた心を溶かした、あなたなのか」
その言葉は、静かに、しかし抗いがたい力をもって、まふゆの心の奥底に突き刺さった。




