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三百年の歳月は、人の一生にはあまりに長く、しかし影人という長命な種族にとっては、癒えぬ傷を抱き続けるのに十分な時間だった。
ミカゲは生きていた。
いや、ただ呼吸をし、動き、任務をこなすだけの「何か」として存在していた。
あの日、ユキを失い、一族を失い、生きる意味の全てを奪われた少年は、永い時の中で感情という最後の枷さえも摩耗させていった。
喜びも、悲しみも、怒りさえも、心の奥底に沈殿し、もはや彼の表情を動かすことはない。ただ、血と硝煙の匂いだけが、自分がまだ生きていることを証明する唯一の感触だった。
彼は裏社会で「亡霊」と呼ばれていた。
影そのものと見紛う神出鬼没の暗殺術。依頼の成功率は限りなく百パーセントに近い。
しかし、その正体も、目的も、誰も知らない。まるで、この世への未練を断ち切れないまま彷徨う、本物の亡霊のように。
その日も、ミカゲは一つの依頼を終えたところだった。
ターゲットである悪徳商人の屋敷は静まり返り、彼の通った後には死体と、そして血の匂いだけが残されている。屋根の上で月を見上げながら、彼は無機質な瞳で街を見下ろしていた。
いつからだろうか。月を見ても、何も感じなくなったのは。
かつて、隣で月を見上げていた少女の面影は、三百年の時を経て霞み、ぼやけている。ただ、胸を締め付ける鈍い痛みだけが、現実感を伴って残っていた。
情報屋との定例の接触のため、彼は馴染みの酒場へと足を向けた。
騒がしい店内、様々な種族が入り乱れて酒を酌み交わしている。ミカゲは誰の注意も引くことなくカウンターの隅に腰掛け、バーテンダーに合図を送った。
すぐに、小太りのドワーフが隣の席にどかりと腰を下ろす。
「よう、旦那。今宵もご苦労なこった」
「……例のものを」
ミカゲは短く告げる。ドワーフは頷き、分厚い封筒をカウンターの下で滑らせてきた。
「毎度あり。……ところで旦那、面白い噂に興味はあるかい?」
ドワーフは声を潜めて続けた。
「この国の『王立特異能力者統合学園』。今年の新入生に、とんでもねえお宝が入るらしいぜ」
ミカゲは興味を示さず、受け取った報酬の中身を確かめている。学園など、自分には無縁の世界だ。
「なんでも、千年に一度しかお目にかかれねえっていう、アレだ。……『アルビノエルフ』の小娘だってよ」
ピタリ、とミカゲの指が止まった。
三百年の間、凍りついていた心の湖に、一つの石が投げ込まれる。
波紋が広がり、水底に沈めていたはずの記憶が、濁流となって蘇った。
『私のことも、そして……あなたが忘れてしまった、あなた自身のことも』
あの月夜に微笑んだ、白い少女。
血に濡れてもなお、美しかった菫色の瞳。
絶望の中で、自分に殺されることを望んだ、悲しい姫。
「……アルビノエルフ」
三百年間、一度も口にしなかった言葉が、乾いた唇から漏れ出た。
その響きは、錆びついた楔のように、彼の胸に突き刺さる。
ドワーフはミカゲの微かな変化に気づかず、面白そうに話を続けた。
「ああ。そいつぁもう、国中の好事家どもが色めき立ってる。特に、あの『白檻会』って連中が黙っちゃいねえだろうな。何せ、奴らにとっちゃ極上の素材だからよ」
──白檻会。
その名を聞いた瞬間、ミカゲの全身を、殺意とも憎悪ともつかない黒い衝動が駆け巡った。
あの日、ユキを奪った者たち。一族を滅ぼした者たち。
三百年の時を経ても、奴らはまだ存在しているのか。そして、また同じ過ちを繰り返そうとしているのか。
「……その学園は、どこにある」
ミカゲの声は、絶対零度の氷のように冷え切っていた。




