29-8
あの日から、ミカゲの世界は色を失った。
ユキがいた部屋はがらんどうになり、彼女の歌声も、我儘な命令も、月明かりの下で交わした言葉も、全てが幻だったかのように消え去った。
残されたのは、己の無力さを刻みつけた冷たい石の床と、決して消えることのない後悔だけ。
──あなたも、私を置いていくのね。
彼女の最後の言葉が、亡霊のように耳にこびりついて離れない。
守れなかった。彼女の願いさえ、叶えてやれなかった。あの絶望の淵で、自分は彼女の手を取ることなく、ただ逃げたのだ。
ならば、もう二度と失わないために。
二度と、無力感に膝を屈することがないように。
(強く、ならなければ)
誰よりも強く。何者にも屈しない絶対的な力を。
守るべきものを守れず、殺すべきものさえ殺せなかった半端な自分を殺すために。
ミカゲは再び短刀を握りしめた。その瞳から、かつての迷いや戸惑いは消え失せ、底なしの闇だけが揺らめいていた。
それからの日々は、血と硝煙に塗れていた。
ミカゲは依頼主を選ばなかった。金さえ積まれれば、どんな汚れ仕事も引き受けた。
貴族の暗殺、密書の強奪、要人の護衛。影に生まれ、影として生きる。かつて一族に教え込まれた通りの、道具としての生き方に戻った。
違うのは、その苛烈さだった。
彼は無意味な殺しは好まない、というかつての矜持を捨てた。任務の障害となる者は、たとえ非戦闘員であろうと容赦なく切り捨てた。
より効率的に、より確実に。まるで己の心を削り、刃を研ぎ澄ますように、彼はただひたすらに任務をこなしていく。
影から現れ、影へと消える漆黒の死神。
彼の名は裏社会に瞬く間に広まった。その腕は確かで、決して依頼主を裏切らない。
そして、何よりも──彼は報酬に頓着しなかった。金は次の任務の備えになればそれでいい。彼が求めるのは金でも名誉でもなく、ただ己を過酷な戦場に置き続けることだけだった。
「──終わりだ」
月明かりも届かない路地裏で、ミカゲは標的の心臓を正確に貫いていた。男が息絶えるのを確認すると、血に濡れた短刀を無造作に振り、血糊を払う。
その瞳は、人を殺めた後だというのに、静かな湖面のように何の感情も映していなかった。
(また、終わった)
任務を一つ終えるたびに、彼は空っぽになる自分を感じた。
強くなれば、この虚しさは埋まるのか。
何人殺せば、あの日の罪は贖えるのか。
答えはどこにもなかった。
ただ、夜が来るたびに、彼は夢を見る。
白檻会の男たちに連れ去られていく、無抵抗な少女の夢を。
『……どうして、殺してくれなかったの?』
夢の中のユキは、いつも静かにそう問いかける。感情のない瞳で、彼をじっと見つめながら。
『……どうして、ひとりにしたの?』
その声から逃れるように、ミカゲはまた次の戦場へと身を投じる。
まるで、自ら死に場所を探す亡霊のように。
失った温もりを取り戻す術を知らず、ただひたすらに、血塗られた道を歩き続けるのだった。




