29-7
その声を聞いた瞬間、ミカゲの心の中で何かが砕け散った。
思考が停止する。
目の前にいる少女の絶望から、彼女の悲痛な願いから、喉元に突きつけられた刃から、白装束たちの嘲笑から、この部屋の全てから、ただ逃げ出したかった。
殺すことなど、できるはずがない。
この一年、彼女が与えてくれた温もりと、戸惑いと、苛立ちと……その全てが、今やミカゲという存在の一部になっていた。
彼女を殺すことは、自分自身の一部を殺すことと同義だった。
だが、守ることもできない。
圧倒的な戦力差。影を封じられた無力な自分。
どうすればいい。
どうすれば。
「……っ」
ミカゲは、ユキから目を逸らした。
その瞳に宿っていたはずの強い光が、ふっと消える。彼はユキの絶望から、彼女の願いから、全てから逃げるように視線を床へと落とした。
短刀を握る手が、カタカタと震える。
動けない。何も、考えられない。
その沈黙を、ユキは肯定と受け取らなかった。
彼女は悟ってしまったのだ。
「……そう」
ユキの声は、燃え尽きた灰のように乾いていた。
先程までの激情が嘘のように消え去り、そこには深い、深い諦めだけが残っている。
「あなたも、私を置いていくのね」
その言葉は、ミカゲの心臓に突き刺さる氷の刃だった。
違う。そうじゃない。
言いたいのに、声が出ない。
「いいえ……それでいいのよ」
ユキは、ふっと自嘲するように微笑んだ。その瞳はもうミカゲを見ていない。遠い、何もない虚空を見つめている。
「最初から、期待なんてしてなかった。……ありがとう、クロ。短い間だったけど、楽しかったわ」
彼女の瞳から、一筋の涙が静かに零れ落ちた。
それは、彼女が見せた最後の感情だった。
「連れて行け」
仮面の男が冷たく命じる。
白装束たちがユキを無理やり引きずっていく。彼女はもはや抵抗すらしなかった。
まるで魂の抜けた人形のように、ただされるがままになっている。
部屋の出口で、ユキが一度だけ振り返った。
その菫色の瞳は、感情という色を失い、ただ静かにミカゲを映しているだけだった。
「…………」
何かを言いたげに、彼女の唇がわずかに動く。
だが、声にはならなかった。
そして、彼女の姿は廊下の闇へと消えていく。
部屋には、ミカゲと、床に転がる死体だけが残された。
喉元に突きつけられていた刃も、いつの間にか消えている。
白檻会の者たちは、ユキさえ手に入れれば、もはや彼に用はないと判断したのだろう。一族は滅び、彼一人残されたところで脅威にはならないと。
ガシャン、と乾いた音がした。
ミカゲの手から、短刀が滑り落ちる。
彼はその場に、膝から崩れ落ちた。
「あ……ああ……」
声にならない呻きが、喉から漏れる。
守れなかった。
殺すことも、できなかった。
彼女の最後の願いさえ、叶えてやることができなかった。
そして、逃げた。彼女を見捨てて、自分だけがここにいる。
「ああああああああああああああッ!!」
獣のような絶叫が、がらんとした姫の部屋に響き渡った。
それは、己の無力さを呪う声。
初めて抱いた大切なものを、その手で守りきれなかった少年の、慟哭だった。
一族も失い、守るべき主も失った。
生きる意味も、道標も、全てが消え去った。
光が消え、影が戻り始めた部屋で、少年はただ一人、泣き続けた。
誰もいない部屋で、たった一人で。
ユキが何よりも恐れていた、「ひとり」になって。




