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俺は、クロではない──。
その言葉は、夜の静寂に鋭く突き刺さった。
ユキは、ミカゲの髪を撫でていた手を止めたまま、大きく目を見開く。
一年間、甘んじて受け入れていたはずの『犬』の名を、彼は今、確かに否定した。
それは、ただの反抗ではない。彼が『クロ』という記号の向こう側にある、一人の人間としての自我を主張した、初めての瞬間だった。
(名前を……教えてくれるの?)
ユキの胸に、かつてないほどの期待と高揚が込み上げる。
この一年、彼という存在は常に謎に包まれていた。過去も、素性も、そして本当の名さえも。
その秘密のヴェールが、今、剥がされようとしている。自分の手で育てた犬が、ようやく心を許し、その喉の奥を見せようとしている。
「じゃあ……あなたの、本当の名前は……?」
上擦った声で尋ねる。
ミカゲはユキの真摯な視線を受け止め、ゆっくりと口を開いた。彼の唇が、未知の音を形作ろうとした、
──その、時だった。
ゴオオオオオオオンッ!!
城全体を揺るがすような、凄まじい轟音と衝撃。
それは、遠くで何かが爆発した音。続いて、甲高い警鐘の音が、夜の静寂を無慈悲に引き裂いた。
「きゃっ!?」
突然の揺れに、ユキはバランスを崩して床に手をつく。窓ガラスがビリビリと震え、壁に飾られた絵画が傾いだ。
何が起きたのか、理解が追いつかない。
「……敵襲だ」
ミカゲの声は、一瞬にして元の冷徹な暗殺者のものへと戻っていた。彼は即座に立ち上がり、音のした方角──城門の方向を鋭い目つきで睨みつける。遠くの空が、不気味な赤色に染まっているのが見えた。
「敵襲……?どこから……誰が……?」
ユキは混乱したまま問いかける。ここはダークエルフ王国の心臓部。こんな夜更けに、誰が攻めてくるというのか。
ミカゲは答えなかった。ただ、その全身から放たれる殺気と緊張感が、事態の深刻さを物語っている。彼の視線は窓の外と、部屋の唯一の入り口である扉とを素早く往復した。
「姫様!ユキ姫様!」
廊下から、侍女の切羽詰まった悲鳴と、複数の兵士たちの慌ただしい足音が聞こえてくる。
ドンドン!と激しく扉が叩かれた。
「姫様、ご無事ですか!城門が破られました!侵入者です!」
「侵入者……!?」
その言葉に、ユキは息を呑んだ。
「隠れていろ。動くな」
ミカゲのそれは、紛れもない命令だった。だが、今の彼の声には、ユキを案じる切実な響きが確かに含まれていた。
ユキが何かを言う前に、ミカゲの身体はすぅっと影の中へと溶け込み、気配を完全に消し去った。
その直後、凄まじい破壊音と共に、部屋の扉が蝶番ごと吹き飛んだ。
木片と砂埃が舞う中、そこに立っていたのは、城の衛兵ではない。
全身を白い装束で覆い、異様な仮面をつけた、見知らぬ男たちだった。その手には、魔力を帯びた武具が禍々しい光を放っている。
「──見つけたぞ、アルビノの姫」
仮面の奥から、くぐもった声が響く。
それは、獲物を見つけた狩人の声だった。
ユキは恐怖に凍りつき、後ずさる。
(白檻会……!)
噂にだけ聞いたことのある、非人道的な組織の名が、脳裏をよぎった。エルフを狩り、その命を実験の材料にするという──。
「大人しく我々と来てもらおうか。貴様のその稀有な力、我々の理想のために有効活用させてもらう」
男たちが、じりじりと距離を詰めてくる。
絶望的な状況。侍女も、兵士も、もうここにはいない。
(クロ……!)
ユキは心の中で、少年の名を叫んだ。
もはや、彼にしか頼れない。
その祈りに応えるかのように。
「──姫には、指一本触れさせん」




