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そして、少女と少年が夜ごと密やかな逢瀬を重ねるようになってから、一年という歳月が流れようとしていた。
少女──ユキは十六歳になった。
その類稀なる美しさは更に磨きがかかり、月光の下では神々しささえ漂わせるほどだった。
しかし、気まぐれで、寂しがり屋で、そして時折見せる悪戯っぽい笑みは、一年前と何一つ変わらない。
少年──クロ、と呼ばれたミカゲは十三歳へと成長していた。
まだ幼さの残る顔立ちは変わらないが、その背は少しだけ伸び、肩幅も増した。
何よりも変わったのは、その瞳の奥に宿る光だ。能面のように固かった表情には、ユキと過ごす時間の中で、ごく僅かながら感情の揺らめきが生まれていた。
もはや、彼らの逢瀬に緊張はない。
ミカゲは部屋を訪れると、影の中ではなく、当たり前のように月明かりの下に姿を現す。ユキが長椅子に座れば、その傍らの床に腰を下ろすのが彼の定位置となった。
「ねえ、クロ。見てちょうだい。隣国から取り寄せた新しい詩集よ」
その夜も、ユキは楽しそうに一冊の本を広げていた。
ミカゲは何も言わず、ただ床に座って彼女の横顔を見上げている。
「今度の詩人はね、恋の歌がとても上手なの。『君の瞳は夜空の星、僕の心は海を彷徨う小舟』だなんて……ふふ、気障だけれど、少し素敵でしょう?」
「……星なら、ここにある」
ぽつりと、ミカゲが呟いた。
ユキは驚いて本から顔を上げ、隣に座る少年を見下ろす。
ミカゲは夜空を指差していた。
「あそこにあるものが、星だ。瞳は、星ではない」
そのあまりに実直で、情緒のかけらもない言葉に、ユキは一瞬きょとんとし、やがてたまらず吹き出した。
「ふふっ……あはは!もう、クロったら!あなたは本当に可愛げがないわね!」
一年前の彼ならば、こんな風に会話に割って入ることなど決してなかっただろう。
ユキの言葉に、ミカゲは少しだけ不満そうに口を噤む。その微かな表情の変化を見つけることが、今のユキにとって何よりの喜びだった。
笑い疲れたユキは、そっと本を閉じる。
そして、床に座る彼の頭に、優しく手を伸ばした。
一年前なら振り払われたであろうその手つきを、今、ミカゲは拒まない。ただ、少しだけ身を硬くして、その温もりを受け入れている。
ユキの指が、彼の柔らかな黒髪を梳く。
まるで、言葉を持たない忠実な犬を労うように。
「……あなたの髪、綺麗ね。闇をそのまま紡いだみたい」
「……」
「この一年、あなたは本当にいい子でいてくれたわ。私の傍に、ずっと」
彼女の声は、慈しむような響きを帯びていた。
この一年、彼のおかげで、退屈だった世界は色鮮やかに変わった。孤独だった夜は、待ち遠しい時間になった。
「ありがとう、クロ」
感謝の言葉と共に、ユキは戯れるように彼の髪をくしゃりと撫でた。
その時だった。
「……クロ、ではない」
静かだが、はっきりとした否定の言葉。
ユキの手が、ぴたりと止まる。
彼女はゆっくりと手を離し、彼の顔を覗き込んだ。
ミカゲはユキの視線を受け止めながら、もう一度、静かに繰り返した。
「俺は、クロではない」
それは、一年という歳月をかけて、彼の中で育まれた小さな自我の芽生え。
少女に与えられた『犬』の名を、少年が初めて、自らの意志で否定した瞬間だった。




