29-1
ユキは窓辺の長椅子に腰かけ、彼が現れるのを待っていた。
昨夜の出来事が、まだ鮮明に胸に残っている。拒絶された痛みと、それでも繋ぎ止められた微かな絆。その両方が、彼女の心を落ち着かなくさせていた。
もし、彼が来なかったら。
今度こそ、本当にひとりぼっちになってしまう。
そんな不安が胸をよぎるたび、彼女は強く唇を噛み締めた。
だから、彼の姿が影から現れた瞬間、ユキの心には安堵の波が静かに広がった。
「……こんばんは、クロ」
いつもより少しだけ、優しい声が出た。
ミカゲは何も答えない。ただ、昨夜と同じように、部屋の隅の影から動こうとはしなかった。その距離が、まだ彼の中に残る強い警戒心と拒絶を表している。
しかし、ユキはそれを咎めなかった。むしろ、その距離が今の二人にとっては心地良いとさえ感じた。
「昨日は、ごめんなさい。……少し、我儘を言い過ぎたわ」
意外な言葉だった。
少なくとも、ミカゲの知る姫君は、決して謝罪など口にする人間ではなかったはずだ。
彼の黒曜石の瞳が、わずかに揺れる。
ユキは自嘲するように小さく笑った。
「私ね、欲しいものは何でも手に入ってきたの。でも、心だけは思い通りにならないのね。……あなたの心も」
彼女は立ち上がると、ミカゲのいる隅とは反対側のバルコニーへと歩いていく。
昨夜のように、彼に近付こうとはしなかった。
「……無理にとは言わないわ。あなたが話したくないのなら、それでもいい。私が一方的に話すだけ。……でも、そこにいて。私の声が届く場所に、ただいてくれるだけでいいの」
その声は、懇願でも命令でもなく、ただ静かな願いだった。
夜風がバルコニーから吹き込み、彼女の白い髪を優しく揺らす。
ミカゲは、ただ黙ってその姿を見ていた。
道具でいろ。感情を殺せ。
一族の教えが、頭の中で警鐘のように鳴り響く。
だが、目の前の少女が放つ、か弱くも必死な光から、どうしても目を逸らすことができなかった。
やがて、彼は影の中から一歩、踏み出した。
部屋の明かりが届く場所へ。
それはほんの小さな一歩だったが、二人を隔てていた見えない壁を、彼自身が越えた瞬間だった。
その姿を認め、ユキの唇に、満月のような優しい笑みが浮かんだ。
「ありがとう、クロ」
その夜も、二人は言葉を交わさなかった。
ただ、ユキはぽつりぽつりと、日中の出来事や、昔読んだ本の話をした。ミカゲは部屋の中央に立ったまま、ただ静かにその声を聞いていた。
だが、その沈黙は、もはや拒絶の色を帯びてはいなかった。
それは、傷ついた二つの魂が、互いの存在を確かめ合うような、穏やかで、静かな時間だった。




