28-5
そんな日々が、一月ほど続いた頃。
その夜、ミカゲが部屋を訪れると、ユキは一枚の楽譜を手に、見たことのない楽器の前に座っていた。
それはリュートに似た、しかしもっと優美な曲線を持つ弦楽器だった。
「こんばんは、クロ。今夜はあなたに、私の歌を聴かせてあげる」
そう言うと、ユキは悪戯っぽく微笑み、指を弦に滑らせた。
ぽろん、と奏でられたのは、寂しげで、しかしどこか温かい音色。
そして、彼女の澄んだ歌声が、夜の静寂に響き渡る。
それは、ミカゲが今まで聞いたことのない歌だった。
戦いを鼓舞する勇壮な歌でも、神を讃える荘厳な歌でもない。
ただ、夜に咲き、誰にも知られず散っていく、一輪の花について歌った、小さな小さな歌。
──なぜ、歌う。
──誰に、聴かせるために。
ミカゲは影の中で佇んだまま、動けずにいた。
歌声が、彼の心の最も柔らかな場所を、優しく掻き乱していく。長年かけて築き上げたはずの分厚い氷の壁に、確かな亀裂が入るのを感じた。
歌い終えたユキは、ゆっくりとこちらを振り返る。
その瞳は、月光を吸い込んで潤んでいるように見えた。
「……どうかしら、私の歌は。これも、『くだらない』?」
月光が差し込む部屋で、ユキは問いかける。
その声は、ほんの少しだけ震えているようにも聞こえた。
ミカゲは、何も言えなかった。
『くだらない』。
いつものように、そう吐き捨ててしまえばいい。感情の揺らぎを隠し、この奇妙な関係を断ち切るために。
だが、喉まで出かかったその言葉は、まるで固い石のように動かなかった。
歌声が、まだ耳の奥で響いている。
寂しいのに、温かい。
悲しいのに、優しい。
それは、矛盾した感情を揺り起こす、不思議な調べだった。
影人として生きる自分には、決して縁のないはずの世界。なのに、どうしようもなく心が惹きつけられてしまう。
「……」
長い沈黙が、部屋を支配する。
ミカゲはただ、楽器を抱えたままこちらを見つめるユキを、影の中から見つめ返すことしかできない。
その黒曜石の瞳に映るのは、かつてないほどの深い混乱。
やがて、ユキはふっと息を吐き、困ったように微笑んだ。
「……そう。答えられないのね」
彼女は責めるでもなく、ただ事実を受け入れるように言った。
その表情には、ほんのわずかな安堵と、それ以上の寂しさが滲んでいるように見えた。
「まあ、いいわ。無理にとは言わない。……でも、覚えておいて、クロ。これは、あなたのために歌った歌よ」
あなたのために。
その言葉が、鋭い刃のようにミカゲの胸を刺した。
誰かが、自分のためだけに何かをしてくれる。そんな経験は、彼の一生において一度もなかった。与えられるのは常に、任務か、罰か、あるいは生きるための最低限の食糧だけだった。
「……なぜだ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「なぜ、俺のために歌う」
「どうしてかしら」
ユキは小首を傾げ、まるで自分自身に問いかけるように呟いた。
「……あなたが、聴いてくれると思ったから。きっと、ただ黙って、最後まで。……私の歌を、ちゃんと聴いてくれるのは、この世界であなただけだと思ったから」
彼女は楽器をそっと横に置くと、ゆっくりと立ち上がり、ミカゲの方へと歩み寄る。
今夜の彼女は、いつもよりずっと慎重だった。まるで、怯えた小動物を刺激しないように、一歩一歩、確かめるように。
ミカゲは後ずさりしなかった。できなかった。
彼の足は、まるで床に縫い付けられたかのように動かない。
やがて、ユキは彼の目の前で足を止めた。
そして、ためらうように、そっと手を伸ばす。
その白い指先が、彼の頬に触れようとした、その瞬間──
ミカゲは、反射的にその手を強く振り払っていた。
パシン、と乾いた音が響く。
ユキの手が、虚空を叩いた。
彼女は驚いたように目を見開き、振り払われた自身の手と、ミカゲの顔を交互に見つめる。
「……っ」
ミカゲの全身が、激しい拒絶反応に震えていた。
これ以上、俺の世界に踏み込んでくるな。
温もりなど、知らない。優しさなど、毒だ。
「……触るな」
唸るような、低い声。
その瞳には、再び殺意にも似た鋭い光が宿っていた。
だが、それはユキに向けられたものではない。彼女に揺り動かされ、崩壊しかけている自分自身への、激しい怒りと恐怖だった。




