28-3
バルコニーに出ると、ひやりとした夜風が頬を撫でた。
眼下には、月光に照らされた王国の街並みが静かに広がっている。
ミカゲはユキから数歩離れた位置、いつでも動ける影の中に半身を沈めるようにして佇んでいた。
ユキは大理石の手すりにそっと寄りかかると、うっとりと夜空に浮かぶ満月を見上げた。
その横顔は白磁のように滑らかで、月光を浴びて淡く輝いている。まるで、夜の世界そのものから祝福されているかのようだ。
「ほら、綺麗な月でしょう」
静寂を破ったのは、やはりユキの声だった。
その声には、まるで子供のような純粋な感動がこもっている。
「私はね、この時間が一番好きなの。誰も彼もが寝静まって、世界が私だけのものになる時間。……この月だけが、私の話し相手になってくれるから」
そう言って、ユキはこちらを振り返った。
その菫色の瞳は、夜空の月と同じくらい、静かで澄んだ光を宿している。
「でも、今日からは違うわね。クロ、あなたがいる」
「……」
ミカゲは答えない。ただ、彼女の言葉がもたらす微かな波紋が、感情のないはずの心を揺らすのを感じていた。
話し相手。それが自分の役目。ならば、ただ黙って聞いていればいい。
「ねえ、クロ。あなたは月を見て、綺麗だとか、そんな風に思ったことはある?」
唐突な問いだった。
ミカゲの記憶の中で、月は常に任務の遂行を助ける『光源』か、あるいは身を隠すための『闇』を生み出すための道具でしかなかった。それを美しいと感じたことなど、一度もない。
「……ない」
短く、事実だけを告げる。
「そう。……そうよね」
ユキは少し寂しそうに微笑んだ。
「あなたは、そうやって生きてきたのね。……可哀想に」
「……可哀想、ではない」
思わず、否定の言葉が口をついて出た。
同情される謂れはない。これが影人としての生き方であり、誇りでもあるのだから。
「あら、どうして?綺麗なものを綺麗だと感じられないなんて、世界の大半を損しているようなものよ。それはとても、可哀想なことだわ」
「……俺は道具だ。道具に、感情は不要だ」
「またそれ?」
ユキはくすくすと喉を鳴らして笑った。その笑い声は、夜の静けさの中で鈴の音のように響く。
「本当にそうかしら。じゃあ、どうして今夜、ここに来たの? 私の命令だったから?……それだけ?」
彼女は手すりから身体を離し、再びミカゲの方へ一歩、近付いた。
夜風が彼女の白い髪をさらい、甘い花の香りがミカゲの鼻腔をくすぐる。
「本当は、少しだけ……私に興味が湧いたんじゃない?私がどんな女なのか、知りたくなった。……違う?」
挑発するような、覗き込むような視線。
ミカゲは息を呑んだ。違う、と即座に否定できない自分がいることに、気づいてしまったからだ。
この姫は、おかしい。自分を殺そうとした相手に友達になろうと言い、命令だと言って傍に置く。その思考回路が理解できず、気味が悪い。
だが、同時に……その不可解さが、彼の心を捉えて離さないのも事実だった。
「……お前の考えていることが、わからないだけだ」
それが、ミカゲの精一杯の答えだった。
「ふふ、それでいいわ」
ユキは満足そうに微笑んだ。
「これから、たくさん時間をかけて教えてあげる。私のことも、そして……あなたが忘れてしまった、あなた自身のことも」
そう言うと、彼女はミカゲのすぐ隣に立った。
そして、彼と同じように眼下に広がる夜景を見下ろす。
「これが、あなたの新しい任務の始まりよ、クロ。まずは、私と一緒に月を眺めること。……どう? 簡単な任務でしょう?」
その声は、もう命令の響きではなかった。
まるで、秘密を分かち合う共犯者のように、甘く、優しい響きを帯びていた。
ミカゲは何も言えず、ただ、隣に立つ少女と同じように、夜空に浮かぶ満月を黙って見つめることしかできなかった。
その月が、ほんの少しだけ、いつもより美しく見えたのは気のせいだろうか。
影人の少年は、その答えの出ない問いを、心の奥底にそっと沈めた。




