28-2
「こんばんは、クロ。……ちゃんと来たのね、いい子だわ」
まるで待ち望んでいた主人の帰りを喜ぶように。
甘く、それでいて有無を言わせぬ響きを伴った声が、静寂を破った。
ミカゲは影の中から完全に姿を現しながらも、一歩もその場から動けずにいた。
来た。
来てしまった。
昨夜、逃げるように去った後、ミカゲは夜通し葛藤していた。
一族の掟を破り、任務に失敗した。もはや自分に価値はない。このままどこかへ消え去るべきだ。
だが、脳裏に焼き付いて離れないのだ。
「待ってるから」
あの言葉が、まるで呪いのように彼の足に絡みついていた。
そして、何よりも……このまま消えることが、あの姫から『逃げる』ことになるという事実が、ミカゲのわずかな矜持を刺激した。
影人は、逃げない。たとえ死が待っていようと、与えられた役目を放棄しない。
彼の新たな役目は、この姫の『話し相手』。
馬鹿げている。そう思うのに、身体は正直だった。日が落ち、月が昇る頃には、自然と足はこの城へ、この部屋へと向いていたのだ。
「……」
ミカゲは何も答えない。答えられない。
ただ、部屋の中央で優雅に微笑むユキを、黒曜石の瞳で見つめ返すことしかできなかった。
その視線には、昨夜よりも深い戸惑いと、ほんのわずかな反抗の色が混じっている。
「ふふ、そんなに警戒しなくても、もう取って食べたりしないわ」
ユキは楽しそうに言うと、長椅子からすっと立ち上がった。
そして、躊躇うことなくミカゲの方へと歩み寄る。
ミカゲの身体が、無意識にこわばった。一歩、また一歩と近付いてくる姫の姿に、いつでも動けるようにと全身の筋肉が緊張する。昨夜の失態を繰り返すわけにはいかない。
だが、ユキは彼の警戒など意にも介さず、数歩手前でぴたりと足を止めた。
そして、まるで珍しい生き物を観察するかのように、じっとミカゲの顔を覗き込む。
「……そう。それがあなたの顔なのね。昨日はよく見えなかったわ」
昨夜は闇と、互いの殺気と激情で、冷静に相手を見る余裕などなかった。
月明かりに照らされた少年の顔立ちは、まだ幼さを色濃く残している。しかし、その表情は能面のように固く、感情というものが抜け落ちていた。ただ、瞳の奥底にだけ、消しきれない魂の揺らめきが見える。
「……面白い顔。綺麗なのに、何も映っていない硝子玉みたい」
「……」
「ねえ、クロ。あなたはいつも、そんな顔をしているの? 笑ったり、怒ったりはしないの?」
矢継ぎ早に投げかけられる、無邪気な質問。
それは、ミカゲがこれまで誰からも問われたことのない類のものだった。
感情は不要なもの。任務の遂行を妨げるだけの雑音。そう教え込まれてきた。
「……不要だ」
かろうじて、それだけを絞り出す。
それが、今夜初めて彼が発した言葉だった。
「不要?」
「感情は、任務の邪魔になる」
「あら、そう。でも、昨日のあなたは、とてもよく怒っていたように見えたけれど?」
ユキが悪戯っぽく微笑むと、ミカゲはぐっと唇を噛んだ。
図星だった。あの時の怒りは、確かに自分のものだった。長年抑え込んできたはずの感情が、この姫の前ではいとも簡単に引きずり出されてしまう。
「……今日は、何を話せばいい」
ミカゲは話を逸らすように、新たな『任務』について問いかけた。
そうだ、自分は話し相手としてここに来たのだ。それ以外の意味はない。
すると、ユキは「そうねえ」と少し考える素振りを見せ、くるりと背を向けた。そして、バルコニーへと歩いていく。
「ついてきて、クロ。……今夜は月が綺麗だから」
有無を言わせぬ、しかしどこか弾んだ声。
ミカゲは一瞬ためらったが、やがて無言のまま、主人の後を追う影のように、彼女の背中についていった。




