28-1
次の夜。
月の光が、昨夜よりも幾分か明るくバルコニーから差し込んでいる。
城の侍女たちが退出した後の姫の寝室は、再び静寂に包まれた。
ユキは一人、窓辺の長椅子に腰かけ、ぼんやりと外の闇を眺めていた。
昨夜の出来事が、まるで夢であったかのように、部屋には何の痕跡も残っていない。血に濡れた絨毯も、落ちていた短刀も、全てが片付けられていた。
彼女の右手には、真新しい白い包帯が巻かれている。傷そのものは昨夜のうちに治癒したが、侍女たちに余計な詮索をされぬよう、あえて残しておいたものだ。
(……来るかしら)
ふと、そんな思いが胸をよぎる。
昨夜、彼は逃げるようにして去っていった。影に溶ける、あの不思議な術を使って。
あれは拒絶の意思表示だったのかもしれない。常識的に考えれば、自分を殺しに来た暗殺者が、のこのこと再び姿を現すはずがない。
「……来てくれたら、いいな」
思わず、独り言が唇から零れた。
その声は、自分でも意外なほど、期待に満ちていた。
退屈だった。
アルビノエルフとして生まれた時から、この世界はガラス一枚を隔てた向こう側にあるようだった。
誰もが自分を『姫君』として扱い、腫れ物に触るように接する。あるいは『忌み子』として遠巻きに蔑む。
誰も、ユキという一人の少女として向き合ってはくれなかった。
だが、彼は違った。
あの少年──クロは、明確な殺意を持って自分に牙を剥いた。彼の瞳には、ただ『標的』としての自分しか映っていなかった。
それが、なぜか心地よかった。初めて、対等な生き物として扱われた気がしたのだ。
(本当に、面白い犬……)
彼の、あの黒曜石のような瞳を思い出す。
憎しみと怒りに燃えながら、その奥底には捨てられた子犬のような、深い孤独と戸惑いの色が揺れていた。
だから、思わず手を伸ばしてしまった。壊れかけた玩具を見つけた子供のように、どうしようもなく興味を惹かれてしまったのだ。
「……もし来なかったら、こちらから探しに行かないとね」
ユキはくすりと笑い、包帯の巻かれた右手を軽く握りしめる。
昨夜の、刃を掴んだ瞬間の鋭い痛み。腕を貫かれた時の衝撃。それら全てが、彼女の退屈な日常に鮮烈な色を与えてくれた。
約束。いいえ、あれは命令。
私の『クロ』になったのだから、主の命令には従うはず。
そう自分に言い聞かせながらも、心のどこかで不安がさざ波のように広がるのを感じていた。
もし、彼が二度と現れなかったら。
せっかく見つけた、世界でたった一つの面白い玩具を、もう失ってしまったとしたら。
その時だった。
部屋の隅、光の届かない最も深い影が、不自然に揺らめいた。
ユキは息を殺し、そっとその影を見つめる。
やがて、その影の中から、まるで滲み出すように一つの人影がゆっくりと姿を現した。
昨夜と同じ、闇色の装束。
そして、戸惑いと警戒心を隠せないまま、こちらをじっと見つめる黒曜石の瞳。
──来た。
ユキの唇に、満月のような笑みが浮かんだ。




