27-7
その言葉は、所有の宣言であり、新たな契約の始まりだった。
ミカゲの全身を、経験したことのない感情が駆け巡る。屈辱、安堵、そして途方もない混乱。
影人としての己が崩壊し、新たな『クロ』という存在が、この姫によって定義されようとしている。
(……逃げなければ)
本能が警鐘を鳴らす。
この女のそばにいてはならない。彼女は毒だ。一族の長が言っていた「情」という名の、影人を蝕む猛毒そのものだ。
ミカゲは残った最後の気力を振り絞り、膝をついたまま後ずさる。
そして、影人固有の能力を行使した。彼の身体が、まるで水面に落ちたインクのように、床の影へとじわりと溶け込んでいく。
気配が希薄になり、輪郭が曖昧になる。物理的な身体が、闇という概念そのものに変換されていく。
このまま影に溶け、この城から、この姫から逃げ去るのだ。一族の元へは戻れない。だが、今はただ、この場から消え去りたかった。
その背中に、追い討ちをかけるように優しく、しかし有無を言わせぬ響きを持った声がかけられた。
「……明日の夜も来てね。待ってるから」
その声は、影に溶け込もうとするミカゲの心を、見えない楔のように打ち抜いた。
待っている、と彼女は言った。
暗殺者である自分を。彼女の命を狙った自分を。
ミカゲの動きが一瞬、止まる。
振り返ることはしない。だが、その声は確かに彼の魂に届いてしまった。
やがて彼の姿は完全に床の影と一体化し、部屋からは完全に消え失せる。後には、血に濡れた短刀と、床に広がる黒い染みだけが残されていた。
一人残された部屋で、ユキはミカゲが消えた影をじっと見つめていた。
そして、誰もいない空間に向かって、くすりと楽しそうに微笑む。
「……ふふ。本当に、面白い犬を拾ったわ」
その菫色の瞳は、初めて手に入れた玩具を見つめる子供のように、純粋な喜びにきらめいていた。
第二十七話・了




