27-6
刃を捨てるか、姫ごと貫くか。
その二択を突きつけられ、ミカゲの心は完全に動きを止めた。
影人として、道具として生きる道。それは、命令に従い、感情を殺し、ただ標的を排除するだけの道。
だが、目の前の姫──ユキは、その道を根本から否定してくる。生きている心臓の温かさを、瞳の奥に宿る迷いを、容赦なく暴き立てる。
血の温もりが、握りしめた短刀の柄から、ミカゲの腕へと伝わっていく。それはユキの命の温もりであり、彼女が差し出した覚悟の重みでもあった。
殺せない。
この女は、殺せない。
その事実が、雷のようにミカゲの脳天を撃ち抜いた。初めての任務で、初めて覚えた感情。それは『不可能』という名の絶望だった。
カラン、と乾いた音が響く。
ミカゲの手から、短刀が滑り落ちた。力を失った指先が虚しく震え、彼は崩れるようにその場に膝をついた。
任務の失敗。それは影人にとって、存在価値の喪失を意味する。
「……殺せ」
絞り出した声は、ひどく弱々しかった。
「……任務を、失敗した。俺は……もう、生きている価値がない。……だから、殺せ」
それは懇願であり、諦めだった。
一族に帰れば、失敗者として処刑される。ならば、この不思議な姫の手にかかって果てる方が、まだ救いがあるように思えた。
しかし、ユキは静かに首を横に振った。
「命じるのは、私よ。クロ。あなたは私の命令を聞きなさい」
凛とした声に、ミカゲは顔を上げる。
月明かりを背にしたユキの姿は、まるで裁きを下す女神のように神々しく見えた。彼女は傷を負った手で、そっとミカゲの頬に触れる。その手は驚くほど温かかった。
「……クロ、私と友達になりましょう。毎晩、私の話し相手になって欲しいの」
「……な……にを……」
予想だにしなかった言葉に、ミカゲは絶句する。
友達?話し相手?この状況で、何を言っているのだ、この姫は。
「私はね、退屈しているのよ。この城の中で、ずっと一人。誰もが私を『アルビノエルフの姫君』としてしか見ない。誰も、私を『ユキ』として見てくれない。……でも、あなたは違うわ。あなたは、私を殺そうとした。私を、ただの標的として見た。……それが、なんだか新鮮で、少しだけ嬉しかったの」
ユキは悪戯っぽく微笑む。その瞳は、先ほどまでの悲哀の色を消し去り、好奇心に満ちた輝きを取り戻していた。
「だから、これは命令よ。あなたは毎晩、ここへ来なさい。そして、私の話し相手になるの。それが、あなたへの新しい『任務』。いいわね?」
あまりにも一方的で、あまりにも身勝手な命令。
だが、その命令は、ミカゲにとって死の淵から引き上げる蜘蛛の糸のようにも思えた。
任務の失敗は、死。しかし、新しい任務が与えられたのなら?この姫の命令に従うことが、生きるための新しい道標になるのなら?
混乱したまま、ミカゲは何も言えずにただユキを見つめる。
ユキはそんなミカゲの様子に満足したように頷くと、彼の頬に触れていた手を離し、すっと立ち上がった。
「返事は?……まあ、聞くまでもないわね。あなたは、私の『クロ』になったのだから」
それは、影人の少年が、初めて一人の少女に所有された瞬間だった。
暗殺者と標的。その奇妙な関係は、この夜、主と従者──そして『友達』という、歪な契約へと姿を変えた。




