27-5
怒声は獣の咆哮となって、静まり返った姫の寝室を震わせた。
侮辱だった。影人として、道具として、ただ任務を遂行するためだけに生きてきたミカゲにとって、「優しい」という言葉は存在そのものを否定する刃だった。
混乱は怒りへと昇華し、研ぎ澄まされた殺意となって全身を駆け巡る。
もはや任務のためではない。これは、己の矜持を賭けた一撃。
床を蹴る音すら闇に吸い込ませ、ミカゲの身体は一本の黒い槍と化した。最短距離を、最高速度で。狙うは寸分違わず、無防備に晒された白い胸の中心。
その刃がユキの衣服を切り裂き、雪のような肌に触れようとした、その刹那。
「──そこまでよ」
凛とした、しかしどこか物悲しい声と共に、信じられない光景がミカゲの目に映った。
ユキが、自らの右手で、ミカゲが握る短刀の刃を真正面から掴み止めていたのだ。
先ほどのように腕で受け止めるのではない。鋭利な刃そのものを、素手で。
じわり、と彼女の白い掌から鮮血が滲み、一筋、また一筋と刃を伝って流れ落ちる。ミカゲの拳を、温かい血が濡らしていく。
「……なっ……!?」
あまりの出来事に、ミカゲの動きが完全に止まった。全身全霊を込めた一撃が、いとも容易く、そしてあまりにも愚直な方法で止められた。
ユキは血の滲む掌で刃を握りしめたまま、悲しげに瞳を伏せる。
「……やはり、あなたは殺せない。……違うわ。殺したくないのね、本当は」
その声は、断罪の響きを持っていた。
ミカゲは言葉を失い、ただ目の前の光景に打ちのめされる。なぜだ。なぜ、こんな真似ができる。痛みはないのか。恐怖はないのか。
「……どうして……」
無意識に、疑問が口をついて出た。
それを聞いたユキは、ゆっくりと顔を上げ、ミカゲの黒曜石の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。彼女の菫色の瞳は、月の光を吸い込んで、悲哀に濡れているようだった。
「……あなたと同じよ。私だって、死にたくないもの」
「……!」
「でもね、クロ。あなたはまだ、生きているじゃない。その心臓は、まだちゃんと温かいわ。私を殺すためにここへ来たのでしょうけど、その瞳の奥にあるのは、ただの迷子の子どもの顔よ」
ユキはそう言うと、刃を掴んだままの右手で、くい、と短刀を引き寄せた。
ミカゲは抵抗できず、されるがままに彼女の元へと一歩、引き寄せられる。血の匂いが、むせ返るように鼻腔をくすぐった。
「本当に殺す気があるのなら、私ごと、その腕を貫きなさい。それができないのなら……もう、やめなさい。こんな虚しいことは」
彼女の言葉は、静かに、だが確実にミカゲの心の壁を侵食していく。
任務を遂行しなければならない。掟を破れば死ぬ。
だが、この姫を殺すことができない。この、自らの命を賭してまで自分を止めようとする、不思議なアルビノエルフを。
ギリ、と奥歯を噛みしめる。力が、入らない。
あれほど燃え盛っていた殺意は、彼女の掌から流れる温かい血によって、まるで消し止められてしまったかのようだった。
「……離せ……」
それは、懇願に近かった。
このままでは、自分が自分でなくなってしまう。影人としての己が、崩れ落ちていく。
しかし、ユキは首を横に振った。
「嫌。あなたが、その刃を捨てるまでは」
二人の視線が、交錯する。
夜の静寂の中、ただ、姫の掌から滴り落ちる血の音だけが、時を刻んでいた。




