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殺したいか、殺したくないか。そんな選択肢は、ミカゲの人生に存在しなかった。
影人とは、依頼主の意を汲み、標的を仕留めるための道具。そこに自らの意思が介在する余地など、あってはならないのだ。
ミカゲは唇を固く引き結び、憎悪の炎を宿した瞳で目の前の姫を睨み据える。
だが、ユキから注がれる温かい魔力は、身体の自由だけでなく、心の強張りさえもゆっくりと解きほぐしていく。焦燥感がミカゲを駆り立てた。
「……離せ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、掠れていた。
その弱々しい抵抗を聞いて、ユキはくすりと小さく笑う。彼女の笑い声は、まるで銀の鈴が転がるようだ。
「あら、やっと口を利いてくれたのね。でも、嫌よ。離したら、また私を殺そうとするでしょう?」
ユキは楽しげに言うと、しゃがんだままミカゲの顔をさらに覗き込んだ。
血の気の失せた白い頬、固く閉ざされた唇、そして菫色の瞳を映す黒曜石のような瞳。その全てを、慈しむように見つめる。
「あなたのその目、とても綺麗ね。憎しみで燃えているのに、奥底は氷みたいに静かだわ。……ねえ、クロ。あなたはまだ、とても若い。どうしてこんなことをしているの? 誰かに命じられたの?」
矢継ぎ早に投げかけられる言葉が、ミカゲの心を乱す。
一族の掟。与えられた任務。それ以外に、彼の行動理念は存在しない。
だが、この姫は違う。まるで一個の人間として、自分に問いかけてくる。
(……やめろ)
心を揺さぶるな。思考を乱すな。俺は影人だ。感情など不要。
ミカゲは残った力を振り絞り、短刀を握る手に力を込めた。
その微かな殺気を感じ取ったのか、ユキはふっと表情を消し、静かに立ち上がった。そして、血の滴る左腕を無造作に掲げる。
「……そう。どうしてもやるというのなら、好きになさい」
彼女の白い指先から、淡い光が溢れ出す。光は傷口を包み込み、見る間に裂かれた皮膚を塞ぎ、失われた血を取り戻していく。最上級の治癒魔術。アルビノエルフだけが使える奇跡の御業。
完全に元通りになった腕を下ろし、ユキはミカゲに向かって両手を広げた。
「さあ、来なさい、クロ。今度こそ、その刃で私の心臓を貫いてみなさい。もう魔術は使わない。あなたを止めるような真似も、もうしないわ」
無防備に晒された胸。挑発的でありながら、どこか諦観を滲ませた菫色の瞳。
その姿は、ミカゲの理解を完全に超えていた。
なぜだ。なぜ殺されると分かっていて、抵抗しない。なぜ、自分を殺そうとしている相手に、そんな目を向ける。
混乱が、ミカゲの思考を支配する。
任務を遂行しなければならない。掟を破ることは、一族からの追放、すなわち死を意味する。
それでも、足が動かない。刃を振り上げることができない。
目の前の少女が、ただの「標的」ではなくなってしまったから。
「……できないの?」
ユキの声には、失望の色が混じっていた。
「そう。やっぱり、あなたには誰も殺せない。……あなたの瞳は、あまりにも優しすぎるもの」
その言葉は、呪いのようにミカゲの心に突き刺さった。
影人として生まれ、情を捨てたつもりの自分に、「優しい」などという言葉が向けられること自体が、最大の侮辱だった。
「……黙れッ!!」
感情の爆発と共に、ミカゲは床を蹴った。
もはや任務のためではない。己の存在を否定されたことへの、純粋な怒り。
闇よりも速く、死よりも冷たい一撃が、今度こそユキの胸へと吸い込まれていく──。




