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ユキは自らの腕に突き刺さった短刀の柄を掴む少年の手を、こともなげに見下ろした。
彼女の菫色の瞳は、夜の闇の中でも爛々と輝き、まるで宝石のようだ。
少年が驚きと警戒心から何も言えずにいると、彼女は面白そうに唇の端を吊り上げた。
「……ふふ。人慣れしてない犬は、人に対して牙を剥くものよね。……まあ私は人ではなくエルフ族なんだけど」
その言葉は、少年を嘲るようでありながら、どこか慈しむような響きさえ含んでいた。
彼女は掴んだままの少年の手をくい、と引き寄せる。華奢な見た目からは想像もつかない力強さだった。少年は僅かにたたらを踏むが、暗殺者としての矜持が、それ以上の無様な後退を許さない。
「名乗らないのなら、私が名付けてあげる。そうね……その黒い装束にちなんで、『クロ』。今日からあなたはクロよ」
一方的に告げられた名に、少年──ミカゲは眉根を寄せる。
一族の掟で固く禁じられた真名とは違う、仮初めの名。
「さあ、クロ。もう一度、私を殺しに来なさい。今度はもっと上手くやらないと、返り討ちにあうわよ?」
ユキはそう言うと、掴んでいたミカゲの手を唐突に放し、自らの腕に刺さった短刀を躊躇なく引き抜いた。
肉が裂け、骨が軋むおぞましい音が響き、新たな血が床の絨毯に黒い染みを作る。
しかし彼女は顔色一つ変えず、血塗れの刃をミカゲへと差し出した。まるで、玩具を返すかのように。
「……っ」
ミカゲは反射的にその短刀を受け取る。ずしり、と自身の命と姫の命、二つの重みが掌にのしかかるようだった。
任務の続行。それが絶対の掟。
感情を殺し、再び構え直す。狙うは寸分違わず心臓。今度こそ失敗は許されない。
ミカゲは床を蹴り、再びユキへと肉薄した。今度は先程よりも速く、鋭く。闇に溶け込む影が、死の一閃を放つ。
しかし、ユキはそれを待っていたかのように、優雅に身を翻した。舞うようにして刃を躱し、懐へ潜り込もうとするミカゲの体勢を崩す。
「……だから、遅いのよ」
凛とした声と共に、ユキの白い掌がミカゲの胸を打った。
それは攻撃というより、触れるだけの優しい所作。しかし、その瞬間、ミカゲの身体から力が抜け、視界がぐにゃりと歪んだ。
力が抜ける。思考が鈍る。まるで、温かい湯に浸かっているかのような心地良さ。
「どう?少しは落ち着いたかしら」
体勢を崩し、床に膝をついたミカゲの前に、ユキがそっとしゃがみ込む。
彼女の菫色の瞳が、間近でミカゲを覗き込んだ。腕の傷からは未だ血が流れ続けているというのに、彼女はそんなことなどまるで気にも留めていないようだった。
「ねえ、クロ。あなた、本当に私を殺したいの?」
その問いは、ミカゲの存在意義そのものを揺さぶる。
殺したいか、殺したくないか。そんな感情は、任務を遂行する上で不要なものだ。
与えられた命令を、ただ機械のように実行する。それが影人。
しかし、目の前のアルビノエルフは、その根底を覆そうとしてくる。
ミカゲは答えず、ただ憎しみを込めて彼女を睨みつけた。
だが、その瞳の奥に宿る戸惑いの色を、ユキは見逃さなかった。




