27-1
ミカゲの思考は、ほんの一瞬、完全に停止した。
影人として生を受け、感情を殺し、気配を殺し、ただの“道具”として己を律してきた十二年間。その全てが、目の前の光景によって根底から揺さぶられる。
気配がなかった。
心音も、呼吸も。まるで、そこに存在しないかのように。
それは影人であるミカゲ自身が得意とする技術。それを、アルビノエルフの姫が、いとも容易くやってのけた。
「……何の真似だ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
動揺。師に、最も忌むべきものだと教え込まれた感情が、凍てついたはずの心を侵食していく。
「真似、だなんて心外ね。お客をもてなす準備をしていただけよ」
ユキはくすりと笑う。その笑みには、暗殺者を前にした恐怖の色など微塵もなかった。むしろ、退屈な日常に現れた珍しい玩具を見つけた子供のような、純粋な好奇心さえ感じられた。
(もてなす……だと?)
ミカゲは思考を強制的に切り替え、再び短刀を構え直す。
標的はまだ生きている。任務は継続中。目の前の異常事態が何であろうと、やるべきことは一つ。
彼は床を蹴った。
直線的な最短距離ではなく、部屋の闇に紛れるように、壁や天井を蹴って三次元的な軌道で姫に襲いかかる。
影人の本領を発揮した、幻惑的な動き。常人ならば、その姿を捉えることすら叶わない。
刃がユキの白い喉元に迫る。
今度こそ、終わりだ。
「──遅い」
凛とした声と共に、ユキの身体がふわりと舞った。
それはまるで、戦いの舞踏のようだった。ミカゲの変幻自在の動きを、彼女は全て見切っているかのように、最小限の動きで的確に回避していく。白いドレスの裾が、ひらりと宙を舞う。
(馬鹿な……!なぜ動きが読める!?)
ミカゲの焦りが、わずかに動きを鈍らせる。その一瞬の隙を、ユキは見逃さなかった。
彼女は回避するだけでなく、ミカゲが踏み込んだ床に、そっと素足を置いた。
ただ、それだけ。
しかし、その瞬間、ミカゲの足元の影が、まるで生き物のように蠢き、彼の足首に絡みついた。
「なっ……!?」
影が、物理的な拘束力を持って彼を捕らえる。
ダークエルフの魔法か?いや、それにしては魔力の気配がしない。これは、もっと純粋な、闇そのものの力……。
「影に生きる者は、影に愛されるとは限らないのよ。坊や」
ユキはゆっくりとミカゲに歩み寄る。その菫色の瞳は、値踏みするように彼の全身を舐め回した。
「まだ若い……十二か、十三くらいかしら。こんな子供を殺しに寄越すなんて。随分と舐められたものね、私も」
屈辱だった。
子供扱いされ、技を見切られ、あろうことか足元の影に捕らえられる。
ミカゲは全身の力を使って抵抗するが、影の拘束はまるで沼のように彼の力を吸い取り、びくともしない。
「離せ……!」
「嫌よ。せっかく来てくれたお客さんだもの。簡単には帰せないわ」
ユキはミカゲの目の前に立つと、その小さな顔を覗き込んだ。
その距離で初めて、ミカゲは気づく。彼女の瞳の奥に宿る光が、ただの好奇心ではないことに。それは、永い時を退屈と共に生きてきた者が持つ、深い深い渇望の色だった。
「あなたの動き、面白いわ。影に溶ける術……影人の一族ね?」
彼女はミカゲの素性を正確に見抜いていた。
もはや、隠す意味はない。ミカゲは拘束を解くことを諦め、ただ鋭い眼光でユキを睨みつけた。
「さあ、どうしようかしら。このまま首を刎ねて、依頼主の元へ送り返してあげるのが礼儀かしらね?」
ユキは楽しそうに言いながら、ミカゲが握りしめている短刀に、そっと指を伸ばした。
その指が刃に触れるか触れないかの刹那、ミカゲは最後の力を振り絞り、拘束された足とは逆の上半身を捻って、短刀を振るった。




