26-3
幾度目かの冬が過ぎ、春の気配が風に混じり始めた頃。
少年は、己が十二の歳を迎えることを知らされた。影人の一族において、それはただの誕生日ではなかった。
幼年期の終わりと、影としての役目を果たす者──すなわち、任務を与えられる者となるための節目である。
「あとひと月だ。それまでに、お前は“仕上げ”に入る」
師であり、一族の長でもある男は、いつものように何の感情も乗らない声で告げた。
“仕上げ”。それは、これまで培ってきた全ての技術、知識、そして精神を、一つの任務を遂行し得る域まで高めるための最終訓練。
少年が連れてこられたのは、一族の集落から遠く離れた断崖絶壁だった。
海に面したその崖は、絶え間なく打ち付ける荒波によって抉られ、人を寄せ付けない威容を誇っている。
「ここから飛び降り、対岸の洞窟にある証を持ち帰れ。日没までが期限だ」
師は淡々と告げる。
その距離は、ただ泳ぐだけでも体力を根こそぎ奪われるほど遠い。加えて、岩肌に叩きつける荒波、体温を奪う冷たい海水。常人であれば自殺行為に等しい。
「……」
少年は無言で崖の下を覗き込む。
渦巻く波濤が、まるで獣の顎のように口を開けていた。恐怖はある。だが、それは死を遠ざけるための本能。思考を支配させてはならない。
彼は静かに呼吸を整え、風の流れを読み、最適な跳躍点を探す。
躊躇なく、少年は身を投げた。
空気を切り裂く落下感。水面に叩きつけられる衝撃が全身を襲う。
冷水が体温を容赦なく奪っていくが、彼は休むことなく腕をかき、足を動かした。
波に逆らわず、流れを利用して体力の消耗を抑える。岩場が近づけば、巧みに身を翻して衝突を避けた。
(道具に、心は不要)
(俺は、影)
冷たさで感覚が麻痺していく。筋肉が悲鳴を上げる。
それでも彼は、ただひたすらに教え込まれた言葉を胸の中で反芻し、己を律した。
数時間後。
少年はずぶ濡れのまま、師の前に片膝をついた。その手には、洞窟の奥に自生していたという、濡れてもなお淡い光を放つ苔が握られている。
師はそれを受け取ると、一瞥しただけで懐にしまい込んだ。
「休め。夜には次の訓練が始まる」
労いの言葉はない。それが当たり前だった。
少年は黙って立ち上がると、震える身体を引きずって寝床へと向かう。
疲労困憊のはずなのに、意識は妙に冴えていた。
(あと、ひと月……)
十二歳になれば、任務が与えられる。
初めての、任務。
それは、これまで受けてきた訓練の集大成であり、彼が“道具”として役に立つか否かを試される最初の審判だ。
成功すれば、影としての一歩を踏み出す。
失敗すれば、死ぬか、あるいはそれ以上の屈辱が待っているか。
寝台に横たわり、目を閉じる。
脳裏をよぎるのは、血の匂いと、泥の感触。そして、処刑された同胞の虚な目。
情は毒だ、と長は言った。
ならば、己がこれから手に掛けるであろう相手に、何を思うべきなのか。
憎しみか?否、それは感情だ。
無か?そう、無であるべきだ。
少年は、来るべき日に向けて、心をさらに硬く閉ざしていく。
それは、まるで自らの意思で凍てついていく湖面のようだった。
感情という波紋が一切立たぬよう、分厚く、冷たい氷の蓋で、己の心を覆い尽くしていく。
それが、影として生きるための唯一の道だと信じて。




