2 美月
母の雪絵が突然死したのは、彼女が六十歳になったばかりの頃だった。
母は、父の心中事件にひどく執着していた。夫は浮気相手に殺されたのだ、あれは無理心中だと、ことあるごとに私に言っていた。
父が亡くなった時…というか失踪した時、私は三歳だった。なので、父の記憶はほとんどない。
父の人となりを母に尋ねても、「優秀な医者だった」と言うだけで、その性格やプライベートな一面は全く見えてこなかった。
だから、私にとって父は、存在しないのと同じ。死の原因が、普通の心中だろうが、無理心中だろうが、私にとっては全く興味のないことだった。
それでも、大学在学中から、私は母の研究所でその手伝いをしていた。母の研究――過去を「見る」――には、興味があったからだ。
業務時間が終わると、母は父の調査を始める。私はそれも手伝った。
母は、
「美月だって、お父さんが自分から死んだなんて信じられないわよね」
などと美談にしたがったが、私は単純にひとりの科学者として興味があっただけだ。もちろん、母の夢を壊したくなかったから、
「うん。そうだよ」
と答えておいたが。
私が二十八歳になった頃、父の心中事件の調査が大詰めを迎えた。
「今夜、きっと成功すると思うの。美月も一緒に見るでしょ?」
興奮に頬を紅潮させた母は、六十歳とは思えない少女のような表情だった。
もちろん、そんな歴史的な成果とも言える場面を見逃す手はない。私は二つ返事で同意し、研究所の職員が全員帰った後、母とふたりでディスプレイを見つめた。
母がいくつかの操作をし、ノイズ画面が次第に映像を映し出す。
そこには、父と若い女性が映っていた。ふたりはなにか言い争いをしている。残念ながら、声は聞こえないので、なにを言っているのかはわからない。
けれど、母は勝ち誇ったように言った。
「ほら、やっぱり争っているわ。納得しての心中じゃないのよ。きっと、あの人は心中なんてバカなことは……」
しない…と続くはずだった言葉は、不意に途切れた。
ナイフを出したのが父の方だったからだ。
逃げ惑う女を追い詰め、腹を刺したのは父……だった。そして、息絶えた女を愛おしそうに抱きしめ横たわらせた後、父は自らの腹を刺し、女に寄り添うように倒れ込み、息絶えた。
私は、自分が思っていた以上のショックを受けていることに気づき、さらに驚愕した。存在しないのと同じと思っていた父ではあったが、母ではない女性を愛し、その思いが高じて命さえ奪ってしまうほどの執着――見たくないと思いながらも、画面から目を離すことができず、強く握りしめた手は、爪が食い込んだ皮膚から血が滲んでいた。
呆然とする私がはっと我に返ったのは、母の悲鳴が聞こえたからだ。
「ウソよ…ウソ!」
半狂乱で叫ぶ母を見て、私の心はすっと冷めた。
ディスプレイを壊しかねない母の取り乱しように、
「お母さん、落ち着いて」
と声をかけようとした時、母は胸を押さえて倒れてしまった。……心臓発作だった。
母の死後、私が彼女の研究を引き継いだのは、ごく当然の成り行きだった。この研究を誰よりも理解しているのは私だったから。
世間は「亡きお母様の遺志を引き継いで…」という美談に仕立てたがったが、私にそんなつもりは全くなかった。それをわざわざ否定するほど大人げなくもなかったが……。
もともと、母の研究所に入ったのも、その研究が面白そうだったからで、所長が母親だったのはたまたまだ。彼女の後を引き継いだのも、もう少しこの研究を続けたいと思ったからに過ぎない。
母自身にもそんなつもりはなかったと思う。私を研究所に入れたのは(母の意図通り)私が優秀だったからで、私より優秀な他人がいれば、迷わずそちらを選択しただろう。だから、研究が続いていくことは喜ぶだろうが、引き継ぐ人間はきっと誰でもかまわなかったと思う。
娘だからと言って、研究者としての私を特別扱いしなかった母だったが、一つだけ娘として望まれたことがある。
それは……子孫を残すこと、だ。
自分の優秀な遺伝子を後世に残したいというのが、母の望みだった。だから、自分が父を選んだ理由をとうとうと語り、最後には必ず「子供の父親選びは慎重にね」と付け加えた。
しかし、私は母のような結婚をするつもりはなかった。
遺伝子を最優先して選んだ相手との結婚の結末が、あれなのだから。
母は優秀な子供が欲しくて結婚したのだし、私という成果を上げられたのだから、当初の目的は果たしたはずだ。
しかし、父を単に「遺伝子の提供者」として見ていただけではなかったのだろう。あれだけ父の死の原因を知りたがり、かつ、真実を知った時心臓発作を起こすほどにショックを受けたのだから。母自身自覚していたかどうかはともかく、父に対する思いにはそれなりのものがあったのだろう。
母という反面教師がいたおかげで、私は、普通に恋愛して結婚することを望んだ。相手の知能指数はよいに超したことはないが、そこまでこだわる気持ちはなかった。
その結果、三十歳になった時、私は学生時代の同級生である夫と結婚した。学生時代からつきあっていたわけではなく、同窓会で再会したのをきっかけとして……というありがちな恋愛だった。
三十二歳で娘が生まれたのは母と同じだが、まったくの偶然である。
娘は「琴花」と名付けた。
私は母の研究を推し進め、時間的には五十年前まで遡ることができ、場所も国内だけでなく地球の裏側の国にまで範囲を広げることに成功していた。
しかし、琴花が五歳になった頃、私は夫に違和感を感じ始めた。特にどうという理由はない。言うなれば「女の勘」といったひどく非科学的な理由なのだが、それでもその違和感を払拭することはできなかった。
私が特に違和感を感じたのは、夫が月に一度、週末にとある避暑地に向かうことだ。そこには学生時代の友人の別荘があり、高校時代の友人たちと集まってバーベキューなどを楽しむのが習慣なのだ……と、夫は説明していた。
「男ばかりの集まりだから、妻帯者も家族は連れて行かないのがルールになってるんだよ」
と、夫は言っていたし、私もバーベキューなどには興味もなかったので、毎回夫をひとりで送り出していたのだが…。
結局、私は母と同じやり方で夫のことを調べてしまった。もっとも、母と違い私の夫は生きているが…。
研究所の職員が帰った夜半、夫が出かけている時刻に遡り、友人の別荘を「見る」。すると、六人の男性がバーベキューに興じていた。夫の言葉通り男ばかり、年齢もおおむね夫と同じくらいと思われた。
「見る」ことはできるが「聞く」ことができないので、彼らがなにを話しているかはわからない。それでも、ごく普通に楽しんでいるように見えた。
さらに時を進めると、バーベキューは終わり、彼らは解散した。私は全員が友人の別荘に泊まるものだと思っていたのだが、別荘に入ったのは夫ともう一人の友人だけ。残りの四人はその場を離れていった。
それに違和感を感じたが、室内に入られてしまえばもう「見る」ことはできない。朝まで時間を進めたが、ふたりが別荘から出てくることはなく、結局夫が姿を現したのは翌日の夕方だった。帰り支度をした夫は、別荘に残るらしい友人に別れを告げ、去って行った。
何回か遡って調べてみたが、夫の行動はほとんど変わらなかった。六人のメンバーもいつも同じ。
悩んだ末、私は、研究所のメンバーにある提案をした。
「この装置を改良したいと思います。今までは屋外でなければ見られなかった画像を、室内まで見られるようにしたいのです」
この装置の欠点の一つは、室内は鏡で光を反射させられないため、「見えない領域」になってしまうことだった。しかし、当然のことだが、犯罪は屋外よりも室内で行なわれることの方が多い。もし、室内を「見る」ことができれば、さらに犯罪捜査に役立てることができるだろう…と言う私の言葉を、研究所のメンバーは素直に受け止めてくれた。
そして、とある優秀なメンバーが、
「立てこもり事件などの時に警察が使う熱探知センサーを応用すればいいのでは?」
と提案してくれ、その方向で研究を進めることになった。
この装置が完成すれば、犯罪捜査をする警察にも大きなメリットがあるので、資金面では警察庁が全面的にバックアップしてくれた。
研究を進めて十年ほど経った時、長波長赤外線カメラとテラヘルツ波イメージングの併用により、壁越しに熱源を検出することに成功した。
その後、熱源データを3D化し、AIでテクスチャを再構成する手法を開発した。そして、人体や家具の赤外線パターンを機械学習で蓄積し、シルエットから人物や動作を推定できるようになった。
これまで不可能だった閉鎖空間の真相解明が可能になったときには、この研究を提案した日から二十年以上の歳月が過ぎていた。
その間、私は違和感を抱えたまま夫との暮らしを続け、気づけば母が亡くなったのと同じ年齢になっていた。大学院を卒業した娘・琴花も研究所のメンバーとなっていた。
琴花は、小さい頃からよく研究所に遊びに来ていた。だから、研究に興味があるのだと思っていたのだが、琴花が研究所で読んでいる本はほとんど歴史書だったし、空いているディスプレイで見ている映像は、源平時代をテーマにしたドラマや映画ばかりだった。
それなら、家で見ればいいのにと思ったのだが、琴花曰く
「家にいると、パパがうざい」
のだそうだ。
夫は歴史教師だったから、「このドラマは、時代考証が甘い」とか「源義経は本当は不細工だったらしいぞ?」などと口を挟んでくるらしい。
てっきり、夫と同じ史学科に進むと思っていた琴花が、理系の大学に進んだ時には驚いたが、私としては嬉しくもあった。琴花は、在学中から研究所の手伝いを始め、大学院卒業と同時に正式なメンバーとなった。
夫のほうはといえば、数年前からバーベキューに出かけることをしなくなっていた。メンバーがみんな歳をとってしまったから、もうやめにしたんだ…というのがその理由だった。
装置の完成を報告する記者会見が開かれた日の夜、祝賀パーティーを抜け出した私はひとり研究所に戻った。過去に遡って、友人の別荘にいる夫の様子を「見る」ためだ。
ひとりで「見る」つもりだったのだが、パーティーを抜け出す時、琴花に見とがめられてしまった。
「パパの秘密を探るんでしょう? 私も『見る』わ」
すべてお見通しという顔で言われ、私は苦笑しつつ彼女とふたりで研究所に戻った。
装置を起動し、夫が最後に別荘を訪れた日に時間を合わせる。まず、別荘の外観が映る。赤外線センサーを使って人がいる場所を特定し、その室内を「見る」ように装置に命令を下す。
別荘の壁だけだった画像が次第に変化し、夫とその友人の姿を映し出した。




