第五章:薄霧の決別と隠密の継承
静寂の里、霞ノ社。
朝の冷気に包まれた境内では、サヤとコトネが精力的に庭の手入れや館の清掃に励んでいた。それは彼女たちに限ったことではない。若手の弟子は皆、夜明けと共に設備点検や雑巾がけから一日を始める。この規律正しい静寂こそが、里の日常であった。
だが、掃除の手を止めたコトネの目に、神妙な面持ちで立ち尽くすサヤの姿が映った。
「サヤ……?」
気遣わしげな声に、サヤはハッとしたように肩を揺らし、取り繕うようにそそくさと奥へ消えてしまった。
「……なんなの?」
サヤがいたのは、主であるソウケンの部屋の近くだった。コトネがそっと部屋を覗くと、そこには今朝早くに訪れた珍しい客人、バレルがソウケンと熱心に話し込む姿があった。
漏れ聞こえてくる「黒本の残滓」や「エルムの旅立ち」という単語。
しばらく聞き入っていたコトネは、親友が何を悩み、何に心を囚われているのかを察し、すぐさまサヤの姿を追った。
「サヤ!」
「ん? なあに、コトネ。今日もいい天気だね」
追いついたコトネに対し、サヤは何事もないように気丈に振る舞う。だが、その表情の奥にある揺らぎをコトネは見逃さなかった。
「サヤ! やっぱりダメ。そんな顔のサヤは見ていられないわ!」
コトネは掃除道具を握っていたサヤの手を強引に引き、リクセンの祭壇の前へと連行した。
「なんなの、コトネ?」
困惑するサヤの前で、コトネは祭壇に飾られた赤い鞘の『キリコ』を手に取り、それをサヤの胸元に押し付けた。
「コ、コトネ!? どういうこと……?」
「サヤ……行きたいんでしょ? エルムのところに」
「えっ……」
「エルムは黒本党の討伐に旅立った。それが気になって、心配で仕方ないんでしょ?」
「そ、それは……」
言葉に詰まるサヤの肩を、コトネは優しく叩いた。
「行きなさい、サヤ。後のことは私に任せて。あなたの心は、もうここにはないわ」
サヤは堪えきれず、コトネのことを抱きしめた。
「ありがとう、コトネ……本当に、ありがとう……」
「いいのよ。……さあ、急いで!」
サヤは涙を拭い、キリコをしっかりと手に持ち、最小限の旅支度を整えて、霧の向こうへと駆け出していった。
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その後、ソウケンの部屋。
主の前に三つ指をつき、額を床に擦り付けるコトネの姿があった。
「ソウケン様……サヤに無断で刀を渡してしまいました。すべては私の独断です。どのような罰でもお受けいたします」
「ふむ……。まあ、それは別にいいんだがな」
意外なほど軽い返事に、コトネは驚いて顔を上げた。
「え……?」
ソウケンは腕組みをし、思慮深い表情で窓の外を見つめた。
「ヴァルガスが死体でも、黒本を通じて生き長らえている……。その真相を掴んだのは、我が里の隠密部隊だということは知っているな?」
「はい。ソウケン様が率いた精鋭の方々ですね」
「いまだに黒本は消えず、各地で蠢いている。……やはり、我々が動くほかあるまい」
「では、またソウケン様が部隊を率いて旅立たれるのですか?」
「いや……私はこの里の主だ。ここを動くわけにはいかぬ。そこでだ、コトネ」
ソウケンは鋭い眼差しを彼女に向けた。
「お前に、私の後を継いで『隠密部隊の頭領』になってほしい」
「な……なんと!? 滅相もございません! 私など、まだまだ未熟者でございます!」
激しく首を振るコトネに、ソウケンはふっと口角を上げた。
「リクセン様がかつて、私を優れていると言ってくださった気持ちが、今なら私にもわかるよ。コトネ、お前は優秀だ。だが、お前はまだ若い。広い世界を見て、様々な経験を積むべきだ」
「し、しかし……」
「お前はサヤに刀を渡し、エルムを追えと背中を押したのだろう? その本人が、いざ自分の番が来ると怖気付くのか?」
その言葉に、コトネの表情が劇的に変わった。
サヤに「行け」と言った自分が、ここで逃げ出すわけにはいかない。
「……確かに。おっしゃる通りです。私が逃げ出しては、サヤに顔向けできません」
コトネは居住まいを正し、力強く言い放った。
「謹んで、隠密部隊頭領の座、お受けいたします!」
「よし。では早速部隊を招集し、出立の支度をせよ」
「はっ!」
返事と共に、コトネの姿が掻き消えるようにその場から消えた。
「ふん、見事な身のこなしだ……」
ソウケンは満足げに頷き、茶を啜った。
静寂の里は、決意を秘めた者たちを包み込むように、いつにも増して深い霧に覆われていった。




