第二章:紺碧の航跡、天空の遺産
美しい流線形を描く帆船が、穏やかな海風をその白い帆に受け、トルニアの港を目指して滑るように進んでいた。
かつて魔力を供給していた魔法電池は空っぽのままだが、もはやそんなものは必要ない。精巧な歯車が舵と帆を連動させ、自然の風を捉えた船は、まるで生き物のように優雅に波を蹴立てていく。
「バレル、いいかしら?」
甲板に設置された木製のテーブル。船の挙動を確かめていたバレルのもとへ、イゾルデが静かに歩み寄った。
「ん、なんだ?」
バレルは鋭い視線をイゾルデに向け、誘われるままに椅子に腰を下ろした。
「見せたいものがあるのだけれど」
そう言ってイゾルデが懐から何かを取り出す。
まずテーブルに置かれたのは、あの豪奢な装飾が施された小さな箱。
「ああ……これではなくて……」
「なんだ、これは?」
バレルがその小箱を手に取り、刻まれた文字に目を留めた瞬間、その瞳が驚愕に見開かれた。
「こ、これは……『プロバンス』の刻印!? まさか、伝説の『生命のしずく』の器か? 本当に見つけ出したというのか!」
椅子を蹴らんばかりに興奮するバレルを、イゾルデは冷ややかな、しかしどこか楽しげな手つきで宥めた。
「だから、違うと言っているでしょ。中身は空っぽ、ただの箱よ。私が見せたいのはこっち」
イゾルデが次に置いたのは、ひび割れ、針の止まった銀の『逆時計』だった。
「……なんだ? 壊れた時計か」
「ただの時計じゃないわ。時間を刻まない代わりに、スイッチを押せば時間を二分間だけ巻き戻す……古代精霊工学の、禁忌の遺産よ」
バレルは言葉を失った。時間を操る機械——。もはや驚きを通り越し、震える手でその時計を掲げ、食い入るように見つめている。
「ねえ、聞いているの? ……直せそうかしら。まあ、無理なら諦めるけれど」
その時だった。バレルが突然テーブルに両手をつき、勢いよくイゾルデに頭を下げたのだ。
「すみません、イゾルデさん! お願いだ、この箱と時計を俺に譲ってくれ! 頼む!!」
「えっ、ええ!? なに、急にどうしたのよ?」
豹変したバレルの態度に、流石のイゾルデも困惑の色を隠せない。
「別に構わないけれど……何に使うのか教えなさい。納得のいく理由がなきゃ嫌よ」
バレルは顔を上げ、真剣な眼差しで口を開いた。
「……実は、この船は本当は『船』じゃないんだ」
「はあ?」
「俺の師匠、プロメが古いロンカ帝国の文献から発見した……『飛空艇』の設計に基づいた実験機なんだよ」
「飛空艇……!?」
その名は、天空人の末裔であるイゾルデの家系にも、お伽噺として伝わっていた失われた技術だ。
「まさか、こんなガラクタで……あの、空飛ぶ船を作るというの?」
「さあな。まだ中を見てみないと断言はできないが、これがあれば大きく前進するのは確かだ」
「何が前進するというのよ」
「永久機関だよ」
バレルの言葉が熱を帯びる。
「この小箱の時空制御の技術と、逆時計の因果逆転回路……。これを組み合わせれば、エネルギー再生を永遠に循環させる『永久機関エンジン』が完成する。ロンカ帝国の天空都市を浮かべていた、あの推進力そのものだ」
「本当に……そんなことが?」
イゾルデはまだ疑いの目を向けていたが、バレルの眼差しに嘘はなかった。
「ガラクタじゃない。これらは失われた精霊工学の、文字通りの『頂点』だ」
イゾルデはふっと息を吐き、少しだけ口角を上げた。
「ふん……面白いじゃない。いいわ、あなたに譲ってあげる。その代わり、何かが完成したら真っ先に私に教えること。いいわね?」
「ああ、約束だ。お前に一番に報告するよ」
バレルが差し出した無骨な手を、イゾルデがしっかりと握り返す。
精霊工学が破壊のためではなく、空への憧れのために使われる未来。
今はまだ海の上を滑る流線形のフォルムが、いつか大空へとはばたく……。
新しい世界の予感に、二人の心は青い空へと吸い込まれていった。




