第三章:双つの逆時計、あるいは空間の亀裂
アステリア王城、玉座の間へと続く通路。
そこには、絶望に打ちひしがれ、崩れ落ちる一人の女性——イゾルデの姿があった。眼前で仲間たちが光に呑まれ、消滅した。軍師として、あまりに無力な結末。
だが、彼女の瞳にはまだ、消えない火が宿っていた。
震える手で懐から取り出したのは、盤面に深いひびが入った、あの『逆時計』……。
(いいえ、これじゃない)
彼女はもう一方のポケットから、別の、古ぼけた銀の懐中時計を取り出した。
十数年前。父と共に古い倉庫を整理した際、ガラクタの山から見つけ出した「動かない時計」。対になる二つの時計のうち、一つは今まで彼女を支えた『逆時計』となり、もう一つは予備として、あるいはただの形見として眠っていた。
「こんな形で、試すことになるなんて……お願い、動いて。動いてちょうだい……!」
それは十数年ぶりに触れる、壊れているかさえ分からない未知の器。イゾルデは祈るような、あるいは悲鳴のような想いを込めて、そのスイッチを深く押し込んだ。
カチリ。
次の瞬間、世界が反転した。
光に呑まれる直前、ヴァルガスの視線によって空中に縫い止められていたエルムの姿が、映像を巻き戻すように「過去」へと戻っていく。
時間が、逆流したのだ。
「サヤ! どこでもいい、時空を切り裂け! 早く!!」
カイエンの切実な叫びが、逆行する時間の中で響き渡る。
サヤは本能的にただ事ではないと察知し、抜刀。闇雲に空間を横一文字に斬り裂いた。
現れた漆黒の裂け目——次元の穴。
「行け行け行け行け行けぇっ! 早くここから出ろぉぉ!!」
カイエンの絶叫に弾かれるように、仲間たちが次々とその裂け目へと飛び込んでいく。
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場所は変わり、トルニアの港、ゼファー・エンド。
平和な潮騒を切り裂き、突如として空中に現れた亀裂から、凄まじい閃光が放出された。
ヴァルガスが放った「蒸発」のエネルギーが、空間を越えて溢れ出したのだ。直撃した港の倉庫の一つが、悲鳴を上げる間もなく跡形もなく消滅する。
やがて、裂け目が閉じた。
石畳の上には、激しく肩で息をするカイエンの姿があった。
「助かったのね……」
サヤが震える声で周囲を見渡す。そこには、同じく這い出したエルムとマルコの姿もあった。
「ふう、危ないところでしたね……」
マルコが力なく天を仰ぐ。
「この異常な体力がなかったら、今頃死んでたな……」
エルムは、ヴァルガスの攻撃で壁に叩きつけられた直後であったにもかかわらず、その驚異的な回復力で立ち上がり、風のような速さで裂け目に滑り込んでいたのだ。
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同時刻、アステリア王城。
「……大丈夫ですか、奥方?」
通路で立ち尽くすイゾルデに、合流したゴドリックが気遣わしげに声をかけた。
イゾルデはたまらず、目の前に「生きている」バルドとゴドリックに抱きついた。
「良かった……本当に、良かった……っ、うっ……!」
「ど、どうなさったんですか、奥方!? 急に泣き出して……」
困惑する二人をよそに、イゾルデは号泣した。彼女だけが知っている。「先に行け」と言った自分の判断で、彼らが一度死んだことを。そして、この古い時計が奇跡的に動いたことを。
直後、玉座の間の方角から、眩い光が漏れ出した。
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トルニアの港。
「ごめんなさい、こんなところしか思いつかなくて……」
サヤがバツの悪そうな顔で俯く。だが、カイエンは彼女の肩を強く掴んだ。
「どこだっていい! それより、俺たちが生きているってことは、あそこにイゾルデがいた証拠だ! 彼女がいなきゃ、俺たちは勝てないんだ」
カイエンの熱い眼差しを受け、サヤは一人離れた場所へ立ち、精神を研ぎ澄ませた。
彼女は直感していた。これが、命を懸けた救出になることを。
「エルム……私がいなくなっても、悲しまないでね」
サヤは、弟のように慈しんできた少年に向けて、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「そ、そんな! サヤ、何を……っ!」
エルムの叫びを遮るように、サヤの刀が再び空間を両断する。
アステリアの王城、イゾルデの待つ場所へ。運命を奪い返すための裂け目が、再び開かれた。




