不測
肩に止まり、顔を覗き込んでくる小鳥に、晶の気分は高揚する。
別れた時のことを思い出して、つんと鼻の奥が痛む。
「小冬⁉ ……本当に? なんでお前、ずっと髪になんかくっついて――」
幼い頃に亡くした小鳥の面影が、髪に憑いていた雪華蛍と重なり、ついうっかり名前を呼んでしまったのだと。驚きと喜びの入り交じる声で説明する晶に、祐樹は嘆息する。
「はぁ……。つい、うっかり……ですか」
困惑と微かな諦念の入り交じる複雑な顔で、じぃっと小冬を見つめた。
「もしかしたら、その子は、晶が現世にいる時から髪に憑いていたのかもしれませんね。縁あって、あなたに憑いていたのなら、今、あなたが冥路に居ることも含めて、すべての巡り合わせは偶然ではなく必然なのでしょう」
「必然?」
晶が目を丸くすると、祐樹は小さく頷く。
「晶が、冥路に生じた変則的な径に迷い込むことになった、きっかけのひとつ……、とでも言いましょうか。その子も冥路を通り、常夜へ往くべき魂だったのですから」
晶は考えを巡らせ、祐樹の言わんとすることを推測する。
「つまり、霊体の小冬と一緒だったから、俺も冥路に落ちたってこと?」
「ええ。そもそも晶の居た場所は、冥路と現世が複雑に絡み合う箇所でもありましたから。その子に延びた冥路の径に手繰り寄せられたというか、呑まれたというか……。冥路には落ちるべくして落ちたのではないでしょうか。……それはともかく」
憂いげな眼差しを晶に向け、祐樹は躊躇いがちに苦言を呈する。
「晶、解っているのですか? もうすぐ常世の入口に往き着きます。あなたは、その小鳥と別れなければならないのですよ」
「えっ、……あ」
釘を刺され、浮ついた心が一気に冷める。
ちら、と肩の上の小鳥に目を遣ると、紅い瞳と視線が合う。
冬の淡雪で拵えたかのような真白の小鳥は、重さを感じさせないほどに、軽い。
けれども、小さな足の感触は、細かな動きと共に制服のシャツ越しに伝わってくる。
晶の小鳥は、確かに存在している。
「……現世に、連れて帰ることは?」
駄目だと解っていながら、晶は尋ねずにはいられない。
祐樹は厳しい顔つきで、諭すように言う。
「できません。初めに伝えたでしょう? この力は冥路限定なのだと。生者である晶は冥路から出られても、既に現世での生を終えているその子は、冥路を出ることができません。あなたが冥路から出た途端、姿を保つことすらできずに、元の雪華蛍に戻るのです。ですから、あなたの手で、きちんと常夜まで送って……」
ふと、口を噤んだ祐樹が、素早く周囲に目を配った。
晶の肩に止まっていた小冬が背後に回り、シャツの襟の上に立って髪の間に頭を隠す。
ぞろり……、と。
白花提灯の薄明りを浴びて、大きな黒い塊が蠢いた。
――小魚の群れ、だ。
弾かれるようにして、かやが立ち上がった。小魚の群れに取り囲まれたのだと知るや否や、かやは色を失い、両の手を胸の前で握りしめて首を竦める。
祐樹は眉ひとつ動かさずに涼しい顔をして、わずかに視線を落とす。
しばし黙って、それから、かやに微笑んでみせた。
「おかやさん、心配には及びません。ですが、怖かったら無理をせずに耳を塞いで、晶のそばで目を瞑っていてくださいね」
そう言って、祐樹は晶に一瞥をくれると、かやの背に片手を添えて送り出し、晶の隣に立たせた。
祐樹が頭上を振り仰いで背を向けると、晶は声を落として、かやに尋ねる。
「耳を塞ぐ、って……?」
「! 晶殿には、小魚たちの声が聴こえないのですか?」
青褪めた顔で目を瞠り、かやは、晶に尋ね返す。
「小魚⁉」
顔を跳ね上げ、小魚の群れを視界に捉えた晶は、はたと気づく。
かやの過去で、ある時を境に聴こえるようになった、小魚の声。
理屈はわからない。だがしかし。
(『錨』か⁉)
あれは確か、かやが『錨』を手放した直後だった。
そして今、小魚の声を聴くことができないのは、『錨』を持つ晶だけだ。
頭の中で状況を整理した晶は、歯がゆい思いで答える。
「……聴こえない。小魚は何て?」
「多くの小魚が、魂となった存在に身体を与えたことを咎めているのです。摂理を歪め、魂の安寧を奪う愚かな行為だと……!」
「いいえ」
透明に澄んだ少年の清しい声が、朗々とした響きを以て、伸びやかに通った。
祐樹は堂々と胸を張って、小魚の群れを仰ぎ見る。
「生者と縁の深い雪華蛍が、ほんの一時冥路の内で身体を得て、常夜までの道のりを共に歩んだとしても……。其れもまた、『錨』を所持する生者が齎す特異の一端。魂の尊厳を損なうような、大きな問題とは言い難い。……違いますか?」
落ち着き払った態度で意見を述べて、祐樹は笑みをこぼす。
ざぁ……っ、と。
突風に煽られる枝葉の如く、小魚の群れが大きく揺らめいた。
晶は顔を引き攣らせ、ひゅっと鋭く息を吸い込む。
声は、聴こえないはずなのに。
まるで、小魚たちが一斉に異を唱えたかのように錯覚する。
罪に問われる咎人の心境で、晶は、ぴくりとも動けなくなる。
すぅっと目を細め、祐樹は冷徹な眼差しで小魚たちを見据えた。ちょこんと小首を傾げ、内緒話でもするかのように声を潜める。
「ええ、勿論。あなた方が特異の『観衆』である前に、冥路の秩序を維持するための『監視』であることは百も承知です。ですがやはり、『退屈』は厭でしょう? ……あぁ、わかりますとも。これは私見ですが、冥路に於いて、感情を揺り動かされることのない『永劫』の退屈は、『拷問』と同義ですからね」
ひとつ頷き、憂鬱を露わにした祐樹は、重々しく溜め息をこぼす。
「しかし、良いのですか? 『錨』を所持する生者を見限ってしまっても。加えて、複数の生者の動向を同時に『視る』ことのできる、稀有な機会を失ってしまっても。なぜなら、あなた方は――」
祐樹は物想う顔で呟き、ちら、と小魚の群れに視線を投げかける。
詩を奏でるように、なめらかに言葉を継ぐ。
「刻々と変貌する『不安』を胸に抱え、不都合な『諦念』から目を逸らし、苦い『絶望』に怯えながらも、『希望』という極上の甘美に追い縋る。……そんな生者の織りあげる繊麗な『憂鬱』を『観たい』のではないですか? ここで絶ってしまうのは、あまりにも勿体なくはありませんか? わずかにでも『惜しい』と、そう思うのなら。……果たして――」
口を閉ざし、祐樹は悪戯っぽく微笑む。
――冥路の規範から逸脱したと見做すべきか、否か。
熟考を促すかのように、祐樹は、ゆるりと小魚の群れを見渡す。
すると、黒々とした群れという塊に、びっしりと嵌め込まれた漆黒の眼が、まるで品定めするかのように、三人を凝視した。
じっとりと降りそそぐ黒い視線の雨に、かやが顔を強張らせ、身を竦ませる。
漂う剣呑な雰囲気に呑まれ、晶の全身の肌が粟立つ。
息の詰まる重苦しい沈黙が続いて、……やがて。
たっぷりと時間を置いた祐樹が、邪気のない笑みを満面に浮かべる。
おもむろに細くしなやかな腕を上げ、自身の胸に軽く手を当てて。
「まだ、『愉し』めますよ」
心を擽る声音で、囁いた。
しん……、として、再び場が静まり返る。
膠着状態に陥ったかと思われた、その時。一匹の小魚が、ひらりと群れを離れた。
それを皮切りに、小魚は一匹、また一匹と、大樹から散る落葉のように群れを離れてゆく。
最後まで留まっていた小魚が翻り、場を離れてゆくのを見届けると、祐樹は、ゆっくりと深く息を吐き出し、振り返った。
「おかやさん、晶も大丈夫でしたか?」
かやと晶の近くに寄った祐樹は、言葉もなく立ち尽くすふたりの顔を交互に見て、はっとなる。
たちまち表情を曇らせ、祐樹は申し訳なさそうに頭を下げた。
「咄嗟のこととは言え、あんなふうに人の心を軽んじる物言いをしてしまって、すみませんでした」
しゅんとして項垂れる祐樹に、呆然とする晶が我に返った。
騒動の原因は、晶が雪華蛍だった小冬に身体を与えたから。
穏便に済ませたかった祐樹は、おそらく――。
小魚らの心情に寄り添う素振りで甘言を弄し、彼らの心に揺さぶりをかけ、自ら退くよう仕向けたのだ。
祐樹に庇われ、あまつさえ頭まで下げられた晶は、非常にばつが悪い。
「あ……っ、謝るなよ。元はと言えば、俺が小冬の名前を呼んだからで……、こっちこそ、ごめん。かやも巻き込んで悪かっ……」
謝罪を口にしかけた晶は、かやの顔を目にして、ぎょっとなる。
「かや? ……どうした?」
かやは血の気のない蒼白な顔に、戸惑いと驚愕を張りつかせ、一点を凝視している。
視線の先にいるのは。
……祐樹だ。
いまにも崩れ落ちてしまいそうに震えながら、かやは両手で口許を覆う。
「祐樹殿。あの、今の……小魚たちの、話――」
「おかやさん、しぃー」
口許に人差し指を当てた祐樹は、やわらかに目を細めて、かやの瞳を覗き込む。
子供らしい仕草とは裏腹に、彼女の言葉を遮る声は低く警告めいた響きを帯び、澄み切った濃褐色の瞳は静かな圧を放っている。
祐樹は口許に薄く笑みを形作り、かやに告げる。
「僕は既に、此処に根を下ろしています。今更、道を踏み外すようなことはしませんし、波風を立てる心算もありません。ですから、小魚たちの言っていた、僕が過去に仕出かしたこと。……諸々、詳しいことは内緒にしてもらえたら助かります」
「……」
声を発することを忘れたかのように、かやは凍り付いたまま祐樹を見つめ返す。
微かに怯えの色さえ浮かべる彼女の瞳が、只事ではないと物語っている。
緊迫した空気を漂わせ、互いに意識を向け合うふたりの視界に、晶は入らない。
話の内容が理解できず、置いて行かれた感が否めない。
「え、何? 俺にだけ小魚の声が聴こえなくて、訳が分からないんだけど」
焦燥に駆られて、晶は口を挟んだ。
ほぅ、と息を吐くことで緊張を解き、祐樹は穏やかな顔で答える。
「すみません、晶。大まかに説明すると、僕が昔、冥路から出ようと色々試して、悉く失敗した時の話なんです。おかやさんには小魚を通して知られてしまいましたが、敢えて詳細を語るまでもない……、僕にとっては、あまり人には聴かれたくない、みっともない話なんです。……ですよね?」
困った顔をして自嘲気味に笑い、祐樹は再び、かやに視線を送る。
かやは肯定も否定もせずに、強張る顔を俯けた。
軽い口調で濁す祐樹と、かやの表情がちぐはぐに感じて、晶はなんだか腑に落ちない。
本当にそうなのかと訝り、晶は鸚鵡返しに尋ねる。
「冥路から出ようとして、……失敗?」
「ええ。至って、個人的な失敗談です」
きっぱりと言い切った祐樹は、俯きがちに目を伏せる。
これ以上は、話す心算がないのだろう。
それに。
祐樹が触れて欲しくない心の領域に、無遠慮に踏み込むような真似もできない。
「……」
釈然としないまでも、晶が察して黙ると、祐樹は顔を上げて、何事もなかったように柔和に微笑んでみせる。次いで、背後の螺旋階段を振り仰いだ。
視線の先には、雪華蛍の群れと少年らしき白い靄、そして、白花提灯を携えた椿の姿。
階下を眺め下ろした椿は、祐樹の姿を認めると、ぱぁっと明るい顔をする。
緋く艶めかしい尾鰭を優美に泳がせ、椿は螺旋階段を滑り下りた。晶たちと並ぶ高さに留まると、こちらに向かって白花提灯を高く掲げてみせる。
ゆらり、ゆうらりと白花提灯を大きく揺らして合図する椿に、祐樹は顔の隣で小さく手を振って応える。
「ちょうど良い頃合いでした。椿たちも無事に下りて来られたようですね」
漸く人心地が付いたとばかりに肩の力を抜き、表情をゆるめた。




