紅珠
ひとり、螺旋階段を滑り下りた椿は、三人が待ち遠しいのか。ほんの少し伸びあがっては顎を上げ、首を左右に傾けては、こちらの様子を窺っている。
白花提灯の淡い光を湛え、薄らと闇を透かす美しい薄紅の尾鰭を、扇子で風を送るように動かして、心なしかそわそわして見えた。
だがしかし、死者の子供を頼まれた手前、彼女は螺旋階段から離れることをせずに、時折、頭上の雪華蛍の群れと少年を気にかけ、ちらちらと頭上に視線を投げかけている。
祐樹が、くすりと笑った。
「椿は、おかやさんと、晶の肩に居る小鳥が気になるみたいですね」
「椿……、殿?」
眉根を寄せて、かやが不思議そうに尋ねると、祐樹は朗らかに、明るい口調で椿を紹介する。
「ええ、螺旋階段の袂にいる女の子です。あの子は僕の連れで、人魚であり、死者でもあります」
「死者……?」
かやは足を止め、片手で胸許を押さえると、まだ少し離れた所にいる椿を食い入るように見つめる。
胸許の手を、ぎゅっと拳に握り、半信半疑の声を漏らす。
「…………さよ?」
「えっ?」
驚きの声を上げた祐樹に応えず、かやは戸惑いと期待の入り混じる瞳を、椿に向けた。
一瞬。
晶の脳裏を、さよの幼い姿が過った。
数年後に水底で邂逅した、さよの姿も。
確かに、椿と、冥路を往ったさよは年齢が近く、背格好も似ているのかもしれない。
身を包む白衣の着物も、遠目には同じに見える。……だが。
晶の中で、さよと椿の面影は重ならない。
しかし、かやは――。
あの時、かやは取り乱していたから。背格好や服装の似ている椿を、さよと見間違うのも無理もなかった。
「かや、椿は……」
違う。
さよじゃない。
事実を突き付けることが躊躇われて、晶は口ごもる。
名を呼ばれた、かやは。
晶の顔を見上げて、いまにも泣きだしそうになる。晶から視線を外し、縋る眼差しで椿の姿を捉えると、一歩、また一歩と近づいて……、足を止めた。
そして。
かやは肩を落とし、力なく項垂れる。
「……椿殿は、違うのですね」
ゆっくりと息を吐き出し、弱々しく震える声で言った。
黒みの強い大きな瞳が揺れて、目尻に小さな珠が留まり、ほんの少し膨らんで――。
かやの『想い』が、ひと粒。
――伏せられた長い睫毛を滑り、差し出された祐樹の掌に、ことりと落ちた。
紅涙の、斑ひとつない綺麗な珠だった。
かやが、零れ落ちた小さな紅珠に気づく前に、祐樹は、それを素早く両手で包み込む。
唇を寄せて、口早に何かを囁いた。
『――り、……れ』
「?」
祐樹が何と言ったのか、聞き取れなかった。
怪訝に思い、眉を寄せる晶に、祐樹は薄い笑みを浮かべ、視線を流して寄越す。
濃褐色の澄んだ瞳に険はないものの、晶を、ひたと捉えて離さない。
晶の疑問を解っていて、尚且つ視線で制されているような……、そんな雰囲気を感じとり、晶は何も訊けなくなる。
かやは胸に片手を当て深く息を吐くと、意を決したように顔を上げ、祐樹と晶を交互に見た。
「祐樹殿、晶殿。私は、できることなら手放した『錨』を捜し出し、家族のいる現世に還りたいと考えております。病床の父に、……妹に一目会いたいのです。どうか、お力添えをいただけないでしょうか」
「ええ。それはもちろん、お手伝いします。ですが――」
紅珠を握る片手を下ろした祐樹は、感情の凪いだ眼差しで、かやを見つめる。
低く潜めた声に一抹の気遣いを忍ばせ、尋ねた。
「おかやさんには、のっぴきならない事情があるのですよね。還ることとなる現世は、冥路に持ち込んだ『錨』が記憶する、冥路に入る直前の時間と場所になります。そうした制約については理解していますか? ……何も問題なければ良いのですが」
大丈夫なのかと、祐樹がほのめかす。
晶は、かやが水神の池に入水した時のことを思い出す。
「あっ」
かやの『錨』となる朱い小石。それを見つけて現世に還りさえすれば、かやは、さよに会える。
さよを連れて村を離れることだって、きっとできる。
漠然と、なんとかなるものだと考えていた。
『錨』の導く現世は、かやが神饌として池に沈められた、まさにその瞬間だ。
当然、池の周りには村人たちがいる。
入水したはずの彼女が池から上がったとして、果たして無事に解放されるだろうか。
――否。
足に括りつけた重石が外れたから浮いたのだろうと捕らえられ、再び池に沈められるのではないか。
現世に還ったところで、かやが、水神の巫女という神饌である事実に変わりはない。
じっとりとした薄気味の悪い不安が晶の身体を這いまわり、手足から熱を奪ってゆく。
「はい」
しずしずと顔を俯け、かやは諦観の笑みを浮かべる。
穏やかでありながら芯のある声で、淡々と意思を示す。
「村との取り決めを破り、水神さまの池から上がれば、私は咎人の扱いを受けるでしょう。村の自険断によって裁かれ、厳罰に処されることと思います。それでも、このまま冥路に身を置き、何処へも往くことができないのなら、最後に、父と妹に会いたいのです。そして、妹には折を見て村を出るように伝えたい……。それさえ済めば、もう未練はありません。どんな罰でも受け入れる覚悟はあります」
「……は? なんだよ、それ」
耳を疑い、晶は呆然とする。
自険断という村の組織が強い権限を持ち、重い刑罰を科すことができるのだと、晶は、かやの過去で知った。
知っていたのに。
かやが現世に還った後の、ほんの一歩先のことにまで考えが及ばなかった。
そもそも、年端も行かぬ少女を、平気で池に沈めることの出来る価値観を持つ大人が大勢いる村だから……。水神の巫女であり、神饌とされる彼女に死罪が科せられたとしても、不思議はない。
眠り続ける彼女を起こしたのは、決して死に追いやるためではない。
かやの不穏な未来を否定すべく、晶は慌てて口を開く。
「かやは罰を受けるようなことは、何もしてないじゃないか! 誰か味方してくれるような……、かやを助けてくれる人は、村にいないのか⁉」
晶の脳裏に真っ先に浮かんだのは、まつだ。
けれども。
かやは、ゆるゆると頭を振った。
「自険断は、村の掟そのもの。誰であろうと逆らうことなどできません」
「そんな……、罪を着せられることが解っていて還るだなんて、無謀にもほどがあるだろ!」
危険であることが解っているのなら、無理をせず、冥路に留まるわけにはいかないのか。
引き留めようとする晶に、かやは俯きがちに、物思う顔をして答える。
「まだ、妹が生きている現世に戻ることができるのなら……。祭事を終えて、私が池に入水したあと、妹が次の神饌に選ばれるまで、数年の猶予があるはず。それなら、私は、あの子だけでも村から逃がしたいのです」
「だったら現世に還った時、かやも一緒に……!」
「ふたりは無理です」
晶の言葉を遮り、かやは強い意思の宿る瞳を険しくさせ、ぴしゃりと言った。
真っ向から反発され、晶は、わずかに怯む。
「水神さまの巫女である私が逃げれば、すぐに追手がかかるでしょう。妹はまだ幼く、捕まるのは時間の問題です。……村を裏切り捕まったとなれば、ふたりとも死罪は免れません」
かやは、捲し立てるように言い切った。
確かに、さよは幼く足が遅い。
姉妹が無事に村から逃げ出すことは、不可能に近いのかもしれない。
押し黙る晶をまっすぐに見据えて、かやは言葉を継ぐ。
「元より、覚悟の上なのです」
言うだけ言って、かやは、ふいと視線を逸らした。
これ以上口を挟むなと言わんばかりの態度に、晶の心はざわざわとして、穏やかではない。
「なんで……」
かやは、自分が助かる方法を考えようとしないのか。
まつが村から逃げるよう勧めても、かやは頑として首を縦に振らなかった。改めて、その時のことが思い出され、晶の表情が硬くなる。
かやを助けたい気持ちだけが、空回りする。
「なんでそんなに頑ななんだ!」
不満や焦りが声に乗り、晶の口を衝いて出た。
ぴくん、と微かに眉を跳ね上げ、かやは驚いた顔で晶を見上げる。
刹那、怒ったような泣きそうな顔をして――。
かやは、きゅっと唇を引き結び、晶から視線を外す。流れるように嫋やかな所作で、両の手を下腹部で重ね合わせ、腰を折って頭を下げた。
「申し訳ございません」
「……」
かやの丁寧な謝罪に、むしろ突き放されたような気がして、晶は口を閉ざす。
じわりと広がる苦い後悔と、胸を衝く寂しさを誤魔化すように顔を顰めて、ぷいっと背けた。
「俺は、……手伝いたくない」
かやを死に追いやるための『錨』探しなんて、したくはない。




