小鳥
誰ともなく、黙り込んで。
不意に訪れる静寂は、深潭の重々しい闇を際立たせる。
自由気ままに舞う淡黄色の蝶が、かやと祐樹、晶の間に割って入り、無音の闇から意識を逸らさせた。
蝶に指を差し出したのは、祐樹だ。
指に止まり翅を上下させる蝶を見つめ、表情を和ませた祐樹は、かやに視線を移す。
「じきに、僕の連れと、常夜へ向かう死者が螺旋階段を下りてきます。階段が明減していても特に実害はないのですが、彼らを怖がらせたくないので……。えぇ、と。おかやさん?」
「はい」
祐樹と、かやのやり取りを聞いて、晶は面食らう。
てっきり自分と同じように、祐樹も彼女のことを呼ぶのだと思っていた晶は、とんっ、と手首で祐樹の脇腹を突いて注意を引く。
「ちょ……祐樹。おかやさん、って何?」
口許に手を添え、晶が声を潜めて訊くと、祐樹は、刹那驚いた顔をして、「ああ」と、やわらかに目を細める。
「僕の祖母は、やゑ、というのですが、近所の方からは、おやゑさんと呼ばれていたんです。……祖母を呼び捨てにしていたのは祖父だけで、祖母の同年代の方々も、おはりさんとか、おきよさんと呼び合っていたんです。ですから、僕は、おかやさんと呼んだ方がしっくりくるかな、と思いまして」
しれっと答える。
「えぇ? そ……」
そういう常識は、もっと早く教えてくれ。
咽許で詰まった言葉が、晶の胸で渦を巻く。
(そういえば、かやの名前は伝えてあったのに、祐樹は一度も口にしてない!)
動揺した晶の顔が、かぁっと火照る。
わざと黙っていたのではないかと勘繰り、祐樹に詰め寄りたい衝動に駆られるも、晶は、かやの視線を感じて、ぐっと堪える。
目覚めたばかりの、かやの前で揉めたくはない。
疑念の眼差しで祐樹を睨めつける晶と、どこ吹く風とばかりに飄々としている祐樹に、かやは少し困った顔で、おずおずと声をかけた。
「あのぅ……、どう呼んでいただいても、私はかまいません。珍しいお召し物の……、御髪も一風変わったおふたりとは、お國も違うようですし」
「國?」
祐樹が、不思議そうに小首を傾げる。
気持ちを切り替え、晶は朧げな知識を手繰り寄せる。言葉を選ぶべく、考えを巡らす。
「たぶん、廃藩置県前の旧国のことだよ。ほら、越後や伊勢、志摩……、薩摩とか? 今でも名が残ってるだろ?」
「あぁ、なるほど」
腑に落ちたといった顔で、祐樹は、ぽんと両掌を打ち合わせて鳴らす。そして、にこりと笑った。
「僕たちが冥路に来たのは、おかやさんよりも後になるので、世の理が少々異なるようです。その辺りはざっくりと臨機応変にして、何か気になることがあれば、互いに確認を取ることとしましょう。では、すみません。……話を戻してもいいですか?」
祐樹は、かやと晶の顔を交互に見る。
ふたりが異を唱えずに聴く姿勢を取ると、祐樹は先ず、かやに向き直った。
「おかやさんは、眠っている間も僕たちの声が聴こえていたのですよね。あなたの無くした『錨』についてですが……。捜すのであれば、僕たちは、できる限りお手伝いしたいと思っています。おかやさんは、この後どうするのか、もう決めていますか?」
現世に還るために、かやは自分の『錨』を捜すのか、捜さないのか。
また、見つからなかった場合は、その後も行動を共にするのか。
祐樹は、かやに尋ねた。
「……」
かやは物思う顔をして俯き、口を閉ざした。
祐樹は、しばし返答を待って。
やがて、聴くものの心をほぐすような、あたたかみのある声で切り出す。
「答えを急かす心算は、ありません。おかやさんにとって大切な……、けれど、難しい問題でもありますから、すぐに決められなくても仕方ないかと思います。僕たちで良ければ相談に乗りますから、ひとりで悩まないでくださいね。……それから、僕たちは今、死者の子供をひとり、常夜の入口まで送り届けている最中なのですが、その子の通る螺旋階段を正常に戻したいので、此処にある黒百合や蝶を別のものに換えて、移動させてしまってもいいですか?」
祐樹に許可を求められるも、かやは事情が理解できないのか、不安げな表情で祐樹の顔を覗き込む。
「何故……、私にお訊きになるのでしょうか?」
「それは、此処にあるすべての黒百合や蝶が、あなたの『想い』から形を得たものだから、ですよ」
柔和に微笑む祐樹もまた、黒百合や蝶の元の姿が、魚顔の白衣の女たちであったことを、かやに伝える気はないのだろう。
かやはわずかに目を瞠って、興味深げに周囲に視線を巡らす。闇に淡い光を散らし、軽やかに行き交う蝶や、足許に咲き乱れる花々に目を輝かせ、ほぅ、と感嘆の溜め息をもらした。
「そうだったのですか。私は、かまいません」
得心がいったとばかりに、かやは頷いた。
「ありがとうございます」
了承を得た祐樹は、晶に身体を向ける。
すべきことを定めた力強い瞳が、ひたと晶を捉えた。
「晶に、お願いしたいことがあります」
祐樹が何を考えているのか想像に難くない。彼の言わんとすることを察して、晶は頬をゆるめる。
「辺り一帯にある黒百合と蝶を、別のものに換えるんだろう?」
「はい。僕ひとりでは、これだけ沢山のものを一度に換えることはできないので、晶の力を貸してください」
屈託なく笑って立ち上がった祐樹は、晶に手を差し出す。
晶が差し出された手を掴んで立ち上がると、祐樹は素早く隣に並ぶ。
かやに背を向け、こっそりと耳打ちする。
「それでですね、先程、晶が降らせた『星雨』でもいいのですが、おかやさんの『想い』を彼女の前で壊して再生させるのは、気が引けるので……。すみません、方法を変えてもらってもいいですか?」
「そう……だな。でも、どうやって?」
晶が声を潜めて問い返すと、祐樹は落ち着き払って答えた。
「晶は、すべての黒百合と蝶を、彼女の涙に模した『珠』に閉じ込めてください」
さらりと、とんでもないことを言われて、晶は唖然とする。
数百年に亘り、かやがこぼし続けてきた涙は、言うまでもなく膨大な数である。黒百合や蝶は、視界に映るものだけでなく、かやを中心に四方八方にあるのだ。
自分の解釈が間違っていないか確認するために、晶は慌てて尋ね返す。
「え? すべて……って、個別に? 動いている蝶も全部?」
「すべてを閉じ込めるひとつの『珠』となると、とてつもなく大きなものになってしまうでしょう。下りてきている椿たちを驚かせてしまうかもしれませんから、個別の方が望ましいかと」
説かれて。晶は螺旋階段を仰ぎ見る。
白花提灯に囲まれて下りてくる椿の姿。それに、雪華蛍の群れまでもが、ぼんやりと見える。
「……確かに」
思いのほか、近い。
頭上の薄明りに瞳を据えた晶に、祐樹は一呼吸置いて、微笑んでみせる。
「『珠』で孵すもの……もとい、換えるものについては、僕が引き受けます」
晶は、祐樹の言葉をゆっくりと咀嚼し、呑み込む。
要は、かやの想いが具現化したもの、すべてを『珠』で囲うことが、晶の役割となる。
(だけど……)
言うは易く行うは難し、だ。
黙りこくる晶に、祐樹は、くすりと笑って囁く。
「実のところ、あなたが今、冥路に居てくれるから、僕は多少の無茶も言えるんです。……晶、どうですか? できそうですか?」
晶に据えられた濃褐色の瞳は、優しげな笑みを浮かべてはいるが、まっすぐで揺るぎない。晶にできないなどとは、露程にも思っていない眼差しだった。
晶は、気を引き締める。
「わかった。やってみる」
できないとは、言いたくない。
眼前に広がる景色を見渡しながら、晶は思案に耽る。
『星雨』では円を使い、白衣の女たちを一挙に壊して創り換えた。だが、蝶と黒百合の二種を、しかも個別に『珠』に閉じ込めるとなると、根本から手段を改めなければならない。
方針を定めて、晶は祐樹に打診する。
「悪い、適当に合わせてくれると助かる」
「もちろん」
ゆったりと構える祐樹は、晶の背に手を添えると、瞼を閉じた。
晶が思い描くのは、石鹸玉にも似た、真珠色の珠。
薄氷の如く儚く、ほのかな光を受け止め、虹色に輝くもの。
息を吸い込み、晶は唱える。
『珠よ――』
深潭に、不思議の力が凝った。
晶の頭上に靄の如く広がる銀の微粒子が、淡黄色の蝶と白花提灯に照らされて、ちかちかと煌めく。
『――虹の輝きを纏う玲瓏たる珠よ、闇にひらめく蜜色の蝶に、しばしの憩いを。……俯き、憂わしげに咲く花の揺り籠となり、微睡みへと誘え』
銀の靄は、繊細な霧雨のように降りそそぎ、蝶と黒百合のそれぞれを包み込んで、形を成す。
ひとつひとつが掌に乗るくらいの大きさの、薄硝子を思わせる真珠色の『珠』となった。
晶の言葉に耳を傾けていた祐樹が、瞼を持ち上げる。
冥路に揺蕩う、あるいは足許に犇めく真珠色の珠を視認すると、濃褐色の瞳にふわりと睫毛を被せる。
唇を開いて、深く息を吸い込んだ。
『安寧に揺蕩う蝶よ、花よ。輪を廻り、つややかな純白の翼を携えて、今、目覚めよ』
祐樹の言葉に呼応するように。
すべての珠が清らかな光を湛え、くるんくるんと、ゆるやかに回転を始めた。
回転の拍子に、珠から小鳥の翼らしきものがこぼれでる。
くるん、と。
翼を開きかけたまま、もう一回りすると、尾羽がすっと伸びて、珠は純白に輝く小鳥に換わった。
さあぁ……っ!
雅やかに翼を広げ、小鳥たちは、さながら白い燈火の如く闇を照らす。二度、三度と翼をはためかせると、砂浜に打ち寄せる漣にも似た羽音が、深潭に響いた。
小鳥たちは広げた翼を器用に操り、なめらかに水を滑りだした。四方八方に散らばると速度を上げ、闇を裂くかの勢いで三人の頭上を旋回し、身体のすぐ脇を通り過ぎてゆく。
しかし、彼らは、決して互いにぶつかることがない。
現世の空を飛ぶ鳥たちと同様に速度を落とすことなく、絶妙に角度を変え、すれ違う。
目まぐるしく行き交う小鳥たちによって水が掻き混ぜられ、雪を思わせる細かな羽毛が、きらきらと深潭に舞った。
小鳥たちに見惚れる晶の髪から、雪華蛍がひとつ、ふわりと舞い上がった。
雪華蛍は、小鳥たちに加わるのかと思いきや、くるりと急旋回して晶の許へと戻ってくる。
晶が手を差し伸べると、雪華蛍は一度躊躇うかのように浮き上がり、それから掌に着地する。
その気まぐれな飛び方が、不意に晶の記憶の、とある姿と重なった。
幼い頃に亡くした、晶の小鳥。
『……小冬?』
唇からこぼれた呼気と微かな声が、不思議の力を間近く招き寄せる。
銀の靄は雪華蛍を包み込み、瞬時にして真白の小鳥を模った。
姿を得た小鳥は首を傾け、紅い瞳で、じぃっと晶を見つめる。
思わず息を呑み込んで、晶はこれ以上ないくらいに大きく目を瞠った。
絶句する晶の隣で、祐樹が真っ直ぐに天を指差した。
粛々と、言葉を紡ぐ。
『水におちた鳥よ――』
掌の小鳥は、ちょんちょんっと足を揃えて小さく跳ね、晶の肩へと飛び乗る。首筋にすり寄り、片方の翼を持ち上げると、嘴で羽繕いを始めた。
はっと我に返った晶は、咄嗟に首筋の小鳥に片手を被せ、覆い隠す。
鳥籠代わりとなる手に口を寄せ、声を落として言い放つ。
『隔絶……!』
『――声を持たぬ慎ましい鳥よ。頭をあげよ。水面の上には、光あふれる現世。白く焼けた薄明の空に焦がれるのなら、太陽をたずねよ。燦々たる星のひしめく空に心惹かれたのなら、月をたずねよ。悠々と羽ばたき、つみかさなる闇をのぼってゆけ。自由な翼で境界を越えてゆけ!』
真白の輝きを放つ幾千幾万という小鳥たちは、一斉に嘴を持ち上げて胸を張り、大きく翼をはためかせる。一塊の群れとなって上昇してゆき、闇の彼方へと吸い込まれていった。
おもむろに顔を上げ、螺旋階段の明減が収まっていることを確認した祐樹は、晶の背に添えていた手を下ろす。
次いで、祐樹は状況を把握すべく、晶の肩に留まる一羽の小鳥をまじまじと見つめる。
ややあって、冷静に、且つ慎重に。
「それで……? その小鳥は一体、どうしたんです?」
もの静かな口調で尋ねた祐樹は、表情を薄く曇らせ、そっと吐息をもらした。




