自戒
黒百合の咲き乱れる深潭に佇む少女は、長い睫毛をやんわりと瞳に被せ、物憂そうに口を開く。
「仇を討ってくれないのなら、私にかまわないで」
目を合わせるでもなければ、襲ってくるでもない。
伝えるべきことを伝え、少女の姿は、すぅ、と闇にとけて消えた。
祐樹が吐息を漏らし、緊張を解く。
晶を制するために出していた腕を下ろすと、穏やかな表情で振り返った。
「ひとまず応えてくれたみたいで、良かったですね」
「そう捉える?」
今の、少女の反応を。
目を瞬かせた晶に祐樹は微笑み、静かに問う。
「それとも晶は、まだ彼女と話をしていないのに、『かまわないで』と言われたら諦めるんですか?」
「……っ」
言葉を詰まらせた晶を横目に、祐樹は、流れるように滑らかな所作で足許の黒百合を手折ると、蝶に換えた。
「要りますか?」
押し付けるのではない、やわらかな声音。
それでいて次の一歩を促すかのように、祐樹は、たおやかな仕草で蝶を差し出した。
「……うん」
晶は、優雅に翅を上下させる蝶に指を伸ばす。
指先に移った蝶を目の高さに持ち上げて、語りかける。
「言っておくけど。先に俺の頭の中に押しかけて来たのは、そっちなんだからさ。話くらいさせてくれよな」
まっすぐな声で告げて、晶は一歩を踏み出す。
白子の少女の近くで黒百合に戯れる小魚たちが、さぁっと散開した。近づいてきた晶と、白子の少女を囲むようにして、ゆったりと旋回し様子を窺う。
「かや」
呼びかけて。それから、晶は一呼吸置く。
蝶の向こう側にいる、白子の少女を見つめた。
「一緒に深潭から出ようよ。径も、灯りもあるから……。大丈夫、迷わずに出られる」
指先から、ひらりと蝶が舞った。
蝶が、少女の耳許で霧消するまでを見届けて、晶は歩を進める。
――あと数歩で、かやに手が届く。
ぽろ……と。少女の目尻から、珠がひと粒こぼれた。
少女の頬を転がり落ちる白銀の珠は、瞬く間に形を崩して、真砂の如く散る。
はっとして、足を止める晶の前に現れたのは、かやの姿を模した『想い』だ。
「来ないで。……私にかまわないで。此処から出ても、私には往くところなんて何処にもない。目なんて覚ましたくない。あの子を亡くした後悔と哀しみだけの現実なんて、要らない。笑っているあの子に会えるのは、夢の中だけなの。束の間の……、けれど、それが私の拠り所であり、永遠。だから放っておいて」
かやの『想い』がほどけて消えると、晶は、もう一歩踏み込む。
置き去りにする気など、毛頭ない。
「放っておけないよ」
きっぱりと言い、晶は、白子の少女の前に坐する。
――もう、蝶に頼らずとも、かやに声は届く。
「かやを、ずっと見てきたから、このまま放っては往けない」
かやの過去を見ている間、声を掛けたくても、手助けをしたくても何もできず、散々もどかしい思いをしてきた晶は、頑として譲らない。
――反応はなくとも、かやは話を聴いている。
「村を水に沈めることはできないけれど、何か別の方法で、かやの力になりたいと思ってる。たとえば……」
気配を感じて隣に視線を滑らせると、両膝をついて腰を下ろす祐樹と目が合う。
やわらかな笑みを浮かべ、祐樹は囁く。
「どうぞ、続けて?」
小さく頷いて祐樹に応え、晶は躊躇いがちに切り出す。
「見つかるって確証は無いんだけど……、かやの落とした『錨』を捜しに行かないか? あんな……、かやとさよに酷いことをした人間のいる村、だけどさ。『錨』さえ見つかれば、還れるんだろ? 『錨』が、冥路に落ちる前の、現世の『時間』と『場所』を記憶しているのなら……。かやは、さよが生きている現世に還れるんだ。そうしたら……、今度こそ、さよを連れて村を離れたらいい」
「それも、ひとつの選択肢ですね」
耳を傾けていた祐樹が、おっとりとした口調で同意する。
そして。
「もしも『錨』が見つからなかった場合。もしくは、事情があって現世に還ることを望まない場合は、僕たちと冥路を往くという選択肢もあります」
さらりと付け加えた祐樹は、ふと、何か思いついたような顔をして、晶に尋ねる。
「ちなみに晶は、彼女の『錨』が、どんな物で、何処で無くしたのか『視て』来たのですか?」
「え? ああ」
答えを得た祐樹は、ちら、と少女に視線を流す。
頬をゆるめ、意味深な口調で言う。
「でしたら、案外すぐに見つかるかもしれません。……彼女の『錨』」
「ん? それってどういう……」
眉根を寄せる晶の視界の端で、少女の放つ白光が幽かに揺れた。
はっとして、晶は白子の少女へと視線を転じる。
祐樹は、動じることなく白子の少女に向き直り、膝を寄せて身を乗り出す。
「あなたの纏う『白』は、さしずめ、あなた自身の心を護るための『想い』なのでしょうね。……目を覚ましても大丈夫ですよ。あなたは独りじゃありませんから」
すみません、触れますね。と慈しむ口調で断りを入れ、祐樹は、そろりと指を伸ばす。
少女の額に指先で軽く触れ、小さな円を描く――。
白子の少女の放つ光が、ゆるりと明減した。
少女の頭頂部から、ひとつ。
小さな丸い粒が弾むように、軽やかに転がり落ちた。それを皮きりに、少女の頭から首、肩にかけて白光が剥がれ落ちてゆく。白光は小さな珠を結び、やがて小さな白い粒に換わってゆく。
ぽろぽろと、あるいは葡萄の房のように塊となって、こぼれ落ちてゆく。
少女の周りに降り積もるそれらに、晶は、じっと目を凝らした。
「白い、花?」
小指の爪よりも、一回りほど小さな白い壷状の花だ。
白花をひと粒摘まみ、祐樹は目を細める。
「……懐かしい。馬酔木の花だ」
「馬酔木?」
「ええ、家の庭の鹿威しの脇に、植えられていたんです。可愛らしい白花が房のように咲いて、小さな砂糖菓子にも似て、触れると一斉に鈴のような音を奏でそうで。……そういえば、幼い頃、花に触れようとしたら、祖母に『馬酔木には毒があるから、触るとお止し。絶対に口に入れるでないよ』と窘められたんです。それから馬酔木の花が咲く頃になると、決まって祖母に注意されて……。あまりに何度も同じことを言われるので、祖母に理由を尋ねたら『大人しそうな顔をして、祐樹は何をしでかすか解ったものじゃないから』って言われたんです」
心外とばかりに微苦笑する祐樹に、晶は真顔で「ああ」と頷く。
(髑髏を拾って、学校に持って行っちゃうんだもんな)
さすが、家族はよく解っていると、晶は胸の内で呟く。
「ほら、晶」
明るく伸びやかな声に誘われ、晶は、祐樹の視線を追う。
白子の少女から放たれていた白光は、馬酔木の花に換わり、艶やかな白髪は黒髪へと変化してゆく。薄曇りの空を思わせる淡い瞳の虹彩も、気づけば蝶の灯り湛える艶やかな濃い黒に変わっていた。
――かや、だ。
食い入るように彼女を見つめ、晶は膝の上で、ぎゅっと拳を握る。
かやに掛けるべき言葉を探し、ぐるぐると巡らせていた晶の思考が、ふつと停止する。
唐突に、気づく。
かやの過去を知り、彼女の『想い』とは対峙したが、本人とは、まだ言葉を交わしたことがない。
謂わば、初対面である。
(あれ……? 一方的に話しかけていたけど、もしかして馴れ馴れしかった?)
なんだか、気持ちが妙に落ち着かない。
晶の頬や耳朶が、じんわりと熱を帯びる。
かやの睫毛が、ぴくんと震えた。
微かに身じろぎすると、細く艶やかな黒髪が一束、さらりと肩を滑り、かやの白い頬に彩りを添えた。
俯きがちに伏せていた瞼を、ゆっくりと持ち上げ、かやは虚ろな眼で祐樹と晶をぼんやりと眺める。
ふわり、と淡黄色の蝶が目の前を横切り、かやの視線を攫った。
揺らいだ瞳に生気を宿らせ、かやは頭上を仰いで、幽かな灯りを追う。
蝶を瞳に捉えると、優しい桜色の唇が薄らと開いた。
「光る、蝶?」
闇に舞う蝶の光が、驚いたように瞠られた瞳に、幾つもの星を浮かべる。
かやは、いまにも顔を輝かせそうに見えて、……けれど。
「本当に、さよのくれた蜂蜜みたい」
たちまち瞳を陰らせ、沈痛な面持ちで俯く。
「さよは……、さよが、いなくなって。……あれは夢ではなくて、それから私は、ずっと此処で……、独りで……」
かやは取り乱すでもなく、泣き出すでもない。まるで夢と現実の線引きをするかのように、かぼそい声で途切れ途切れに呟くと、きゅっと唇を噛んだ。
「長く夢現の状態にあったのです。気分が優れないとか、身体で痛むところはありませんか?」
祐樹が、場の空気を乱すことのない耳に沁み入る声音で、かやを気遣った。
かやは、はっと我に返ると、ひどく驚いた表情で祐樹と晶を見た。そして、俯きがちに力なく首を横に振って応えた。
祐樹が心配そうな顔で、かやの顔色を窺う。
「僕は、祐樹といいます。……失礼ですが、自分の名前はわかりますか?」
「かや、と申します」
しっかりとした眼差しで見つめ返し、かやが淀みない口調で返すと、祐樹は軽く瞼を伏せて頷く。
「とても……、つらい思いをされたそうですね。夢に落ちて、感情や願望の一部が剥き出しとなり、『想い』として吐き出されていたことが、幸いしたのかもしれません。あなた自身が感情に呑み込まれてしまわず、こうして無事に目覚めることができて、なによりです」
労わりの言葉を掛け、祐樹が穏やかに微笑みかけると、かやは恥じ入るように顔を伏せ、肩を窄めて小さくなった。
「祐樹殿、お気遣い痛み入ります。……そして、晶殿」
真剣に表情を改め、かやは晶に向き直る。正座の姿勢で襟を正すと、両手を滑らせ両膝の前に付き、深々と頭を下げた。
(晶殿⁉)
まさか名を呼ばれるとは思わず、更に聞き慣れない敬称までつけられて、どきりとした晶は、背筋を伸ばす。
くすぐったいような、照れくさいような心地になり、なんとなく居心地が悪い。
どんな顔をしていいのか判らずに、晶は目を泳がせる。
「おふたかたの声は、耳に届いておりました。未熟者ゆえに自制が利かず、醜態をさらし、大変なご迷惑をおかけいたしました。特に晶殿には、身の上を語り、あまつさえ村に報復するよう焚きつけるなど、とんでもないことに巻き込んでしまったそうで、なんとお詫び申し上げたら良いのか……」
申し訳なさそうに詫び、頭を下げたままのかやに、晶は慌てふためく。
「いや、俺だって、かやの立場だったら――」
言いかけて、口を噤む。
――正気でいられたかどうか、わからない。
かやの『想い』に同調せず、協力しなかったのは、晶が彼女とは別の人格を有していたから。
『白河 晶』としての自我と生きた記憶が、かやの体験と一線を画していたからだ。
当事者であったのなら、村を憎悪し、報復に走っていたかもしれない。
思いを巡らせ、晶は声音を沈ませる。
「とにかく、これといって問題もないし、俺は気にしていないよ。っていうか、その……、涙から孵った『想い』がどんなものだったとか……、俺と、俺の頭の中で揉めたことは、覚えてる?」
かやは困惑の表情を浮かべると、視線を落として考え込む。ややあって、弱々しい声で申し訳なさそうに答えた。
「いいえ。妹に会うために何度も夢を彷徨い、村を怨めしく思ったことは覚えております。ですが……、私自身、晶殿と祐樹殿が話された内容を外からおぼろげに伝え聞き、事のあらましを知った次第で、『想い』と言われるものに関しては、何も……。今しがた、おふたかたに『かまわないでほしい』と伝える自分の声を聴きましたが、それについても、よくわからないのです」
自分自身から溢れた『想い』について、かやが何ひとつ把握していなかったことを知り、驚いた晶は、彼女の顔をまじまじと見る。
かやに不安の色濃い眼差しで見つめ返された晶は、すぐに思い至る。
夢と現実の狭間で微睡んでいたのだから、情報が断片的となり、すべてを理解していなくとも不思議はない。ましてや、涙としてこぼした『想い』が内で育ち、孵った先のことなど、かやは知る由もないのだ、と。
「そっか」
笑みを浮かべて平静を装い、晶は、そっと目を伏せる。
襲ってきた夥しい数の白衣の女たちを思い浮かべて、密かに嘆息する。
(かやは、知らなくて良かったのかもしれない)
もしも、深潭に犇めく白衣の女たちを、かやが目の当たりにしていたら。
それが仮令、感情の一欠片であり、涙の結晶内で育ったものだとしても。自分自身の抱く『怨めしい』という感情が基になったのだと知れば、相当な衝撃を受けたであろうと、晶は、かやの心情を慮る。
晶の脳内で交わされた会話についても、そう。
長い眠りから覚めた今、さよを亡くした哀しみを表に出さず、気丈に振る舞うかやは、秘めた想いを曝け出したいとは、思っていないのだろう。
だから――。
(俺に……、いや。他人には言いたくない、知られたくない想いだったろうから)
――意図せず、こぼしてしまった『想い』と、晶が交わした会話の詳細についても、かやは、きっと知らなくて良かったのだ。




