蜜灯
並んで立つ祐樹と晶は、白子の少女に視線を定めて、しばし黙る。
ちら、と互いの顔を横目で見る。
「さて、起こそうにも、どうやって近づこうか」
「迂闊には近づけませんしね」
白衣の少女に、涙をこぼされないとも限らない。
晶は、両手で自分の目許を覆い、俯く。
「また、かやの想いに囚われても厄介だし。俺が目隠しして、祐樹に後ろから押してもらうっていうのは、どうだろう」
「それって……、落ちた涙から孵るのが、最初に襲ってきたような白衣の女性だったら、危なくないですか? 大体、僕の方が晶よりも背が低くて、前が見えなくなるのに、どうやって彼女の許に辿り着くんです?」
不安げに表情を曇らせて、祐樹は、やんわりと却下する。
確かに、祐樹の身長は、晶の目の高さほどしかない。
困り果てて、晶は小さく唸る。
「う~ん、何が孵るのか判らないからなぁ。さっきみたいな実体のない光が孵ったとしたら、『隔』で透明な障壁を創ったとしても無意味だし、不透明にしたら結局前が見えないし……」
『想い』が光に紛れ、情報の一環として脳に伝達されるのでは、防ぎようがない。
頭を捻るも、なかなか良い案が浮かばない。
晶は渋い顔をして、溜め息をこぼす。
「近づけるところまで近づいて、大声で話しかけるしかないのかな。でも、なんだか……」
かやが深潭に下りてきた経緯を知ってしまった以上、塞ぎ込んでいる女子に、遠くから喚き散らすのは。
「方法としては、最悪だよなぁ」
気が進まずに、晶は、ぽりぽりと頬を掻く。
祐樹が眉尻をさげて、微苦笑する。
「他に方法が無ければ、それも致し方ないかと思われますが、その前に――」
視線を落として、祐樹は足許に咲く黒百合を一輪、手折る。
おにぎりを握るような手つきで、小さな黒花を、そぅっと包み込んだ。
「――こういう方法は、どうでしょうか」
円く、ふっくらと形作られた祐樹の両掌が、ゆるりと開く。
指の間から薄光がこぼれて、深潭の闇に一片の小さな灯りが点る。
春先の、ぽかぽかとした陽気を思わせるあたたかな淡黄色の光は、咲きかけの蕾のようなもの。それは、薄硝子の如く闇を透かして、胸許に揃えられた祐樹の両掌に、咲く。
晶は、祐樹の手許を覗き込む。
「円を描くんじゃなくて、両掌を使って、……玉? を作ったのか?」
「ええ。彼女の涙を参考に、試してみました」
視線を落としたまま小さく頷く、祐樹の掌で。
はた……、と。
繊細な硝子細工を彷彿とさせる花弁がひらめいて、ゆったりと水に舞った。
風に踊らされる儚い花片のように、はたはたと翅をひらめかせて浮かぶそれに、晶は目を瞬かせる。
もしや、花ではなくて。
「蝶、なのか?」
水に揺蕩う海月のように、やや緩慢な動きで移動する蝶に、晶は小首を傾げる。
祐樹が何をする心算なのか、さっぱりわからない。
晶は、ほのかな光に照らしだされる祐樹の横顔を見遣った。
目を伏せ、自分自身の両手を見つめる祐樹の唇が、薄らと開く。
「蝶のような、そうでないような?」
祐樹は片膝をついて、黒百合を手折っては、両掌で包み込む。
二頭目、三頭目……と、次々に蝶が現れて、祐樹の掌から離れてゆく。
そこかしこで乱舞する、たくさんの淡黄色の蝶が、やわらかな光を闇に散らした。
不思議そうに、あるいは興味を惹かれたかのように。小魚たちは蝶と一定の距離を保ちつつ、その周囲を旋回する。
不規則な動きをする蝶に右往左往する小魚を仰ぎ見ながら、晶は、祐樹の言葉を怪訝に思い、小首を傾げる。
「そうでない、ような?」
「んー……、夜闇にある虫は、光を求めるでしょう? 蝶のほとんどは昼に活動していますが、ほら、日が暮れると外の蛍光灯の周りにいっぱい……、ね?」
ほんの少し落とした声に笑みを含ませ、祐樹は歯切れの悪い口調で答えた。
祐樹の言い回しに、彼が生物の走性について話しているのだと、晶は察する。
「ああ」
暗闇で光に反応して移動する走光性の代表的な昆虫といえば、蝶ではない。
蛾だ。
しかし、日本では昼行性であるのが蝶、夜行性は蛾だと、大まかに分けられてはいるが、諸外国ではbutterflyや、papillonなどの名称で、蝶と蛾は一括りにされがちである。
「蝶も蛾も同じ鱗翅目だし、似たようなものなのかもな。とりあえず、便宜上『蝶』ってことで」
「どうも」
調子を合わせた晶に、祐樹は頬を緩め、頷く。
ひらり……と、一頭の蝶が、晶を横目に通り過ぎた。
優しい光に誘われ、晶は蝶を目で追う。
「かやのところに蝶を遣りたいのか? でも、こっちには白花提灯があるし、蝶自体も光っているから、混乱してまともに辿り着けないんじゃないか? そもそも、どうして蝶が光っているんだ?」
「彼女の放つ光は、夜空に輝く白い月のようでしょう? 灯りに向かって飛ぶ、夜の虫の習性から着想を得ましたが、蝶は形を模しただけのもので、それそのものではないのですよ。彼女が眠りから覚めた時、目に映すものが良く知ったものであれば、驚かせてしまうこともないかと思いまして。……蝶に、灯りを持たせたのは――」
吐息の絡む声で囁いて、祐樹は頭上にひらめく光の欠片を仰ぐ。
ふ、と物想う顔をして俯き、憂える瞳にやんわりと睫毛を被せた。
「――声が聞こえて、哀しい夢から醒めて。たとえ意識が朦朧としていたとしても、目を開ければ自分独り。……暗闇しかなかったら、あんまりにも寂しいじゃないですか。これまでずっと、意識が戻りかける度に、彼女は心が削られるような思いをしてきたのではないかと、……そんな気がしたんです」
涼しい声音に寂寥感を漂わせ、祐樹はしみじみと言う。
つい先程、灯りひとつない深潭の闇を身にしみて感じた晶は、祐樹の言葉に相槌を打つ。
「そうだな」
「ですから……、はい、晶」
祐樹は一頭の蝶を指先に止まらせ、晶に差し出した。
「ん?」
訳が分からないまま、晶は人差し指を近づけて、蝶を受け取る。
翅を閉じて指先に止まる様は、晶のよく知る蝶、そのものだ。
「彼女に、伝言をお願いします」
「伝言?」
戸惑い、大きく瞠った目を瞬かせる晶に、祐樹は、くすりと悪戯っぽく笑う。
「ええ。蝶には、彼女に声を届ける役を与えてみました。声を乗せた蝶を何頭か遣わして、目覚めを促しつつ、様子を見ながら近づいてみましょうか」
百聞は一見に如かずとばかりに、祐樹は黒百合を手折ると、両手で包み込んで蝶に換えた。
蝶を乗せた指を口許に寄せて、囁く。
「木漏れ日を採って拵えた、光る蝶は要りませんか?」
蝶は、閉じていた翅をゆっくりと広げ、祐樹の指先から舞い上がる。
すると、頭上にひらめく蝶たちが、あとに続いた。
祐樹に伝言を託された蝶は、白子の少女の許に辿り着くと姿を崩し、光の粒子となって闇に霧消する。
残された数多の蝶が、白子の少女の周りに咲き乱れる黒百合の間を、ひらひらと舞った。
「蝶は、無事に役を果たしたようですね。……起きてはもらえなかったみたいですが」
祐樹は、白子の少女の様子を窺いながら、彼女に歩み寄る。
数歩進んで足を止めて、祐樹は足許の黒百合を摘み、蝶に換えた。
「晶も何か、声を掛けてみてください」
指の背に蝶を止まらせた祐樹が振り返り、ふわりと微笑む。
「いや、急に言われても、何て話しかけていいのか思いつかなくて」
しかも、蝶相手に。
当惑する晶から、祐樹は手許の蝶に視線を移し、事も無げに言う。
「あなたが彼女に伝えたい言葉であれば、短くても良いのですよ。……でも、そうですね。先ず、彼女の『名』を呼んであげてください」
「名前を?」
「ええ。『名』は、彼女が彼女自身である証。現世に生を受けた時に与えられ、彼女が自己を形成してゆく過程で幾度となく呼ばれ、経験の一部として織り込まれてきたもの。『名』は、彼女の肉体、思考や記憶のすべてに紐づけられた、彼女を彼女たらしめるものだと、そう思うからです」
だから……と。祐樹は、おっとりとした口調で続ける。
「彼女のことを知る晶が、名前を呼んで話しかけてあげてください。自分を知る人がいるとなれば、きっと、彼女は応えてくれます」
「……」
にっこりと笑みを浮かべる祐樹に、複雑な気持ちで晶は黙り込む。
ここで話しかけたとして、聞いているのは本人でなく、祐樹だ。
なんだか声を出しづらく、晶は気恥ずかしさを覚える。
晶を見つめる祐樹が、ちょこんと小首を傾げた。
「どうしました?」
「いや」
今更、他の方法を……とは、言えない。
後に引けない。
諦めた晶は歩を進め、祐樹の隣に並んだ。
口許に指を寄せて、蝶に囁く。
「かや」
名を呼んで。
しばらく黙っていると、晶の指先から蝶が、ついと離れた。
祐樹と晶に見守られ、蝶は闇を掻き分けて進む。
少女の許で役を果たした蝶の姿が、さらりと闇にほどけるのを見届け、晶は眉尻を下げる。
「反応、ないみたいだな」
「ええ。……ですが、声が届いても、気分を悪くした様子はないみたいです」
ゆったりと構える祐樹は、数歩進んで屈み、手折った黒百合を蝶に換える。
「僕が蝶を渡しますから、晶は引き続き、彼女に話しかけてください」
指先で翅を閉じる、透きとおった淡黄色の蝶を見つめて、晶は小さく息を吐く。
「かや。今、周りに飛んでる蝶、な。斎戒の最後の日に、さよがくれた蜂蜜と同じ色をしているんだ」
予備動作なく軽やかに、蝶は晶の指先を離れて浮かび上がる。
上下に揺れて揺蕩う蝶が、少女の許で闇にとけるまでを、晶は注意深く見つめる。
しかし、少女は身じろぎひとつしない。
晶は、溜め息をもらす。
「駄目か」
「……声は届いているんです。続けてみましょう」
黒百合を蝶に換えた祐樹が、立ち上がる。足を踏み出すや否や、ぴたりと動きを止めた。
腕を上げて、晶が前に出ないよう制すると、すっと表情を引き締める。
「祐樹? どうし……」
「……」
刹那、晶と視線を交わした祐樹は、黙って前方に瞳を据える。
いつから、そこにいたのか。
行き交う蝶の放つ幽かな灯りを浴びて、闇に浮かび上がる人影を認め、晶は息を呑む。
数歩先に立つのは、白衣の着物に身を包む、ほっそりとした黒髪の少女だ。
黒髪の少女の面差しは、白子の少女と瓜二つ。
両者の違いは、髪と瞳の色だけ。
「かや?」
たった今、黒百合から換えられたばかりの蝶が、可憐にはばたき、祐樹の手許を離れた。
蝶は、かやの肩に触れるかと思いきや、身体をすり抜けてゆく。
(実体がない!?)
彼女もまた、かやから溢れた想いの一欠片か。
祐樹が、ほんのわずか前に出て、窺い見る。
「あなたを害する心算はありません。少しだけ、僕たちと話をしませんか?」
「……ないで」
耳に覚えのある、まろやかな少女の声は、だがしかし、暗く沈んで覇気がない。
少女は無感情に、淡々と言葉を重ねる。
「私に、かまわないで」




