9.火急
「私が悪かったんだ……」
「ルナのせいじゃないよ」
廊下の隅でしゃがみこんで顔を手で覆うルナの肩をエトヴィンが掴んだ。
「でも……」
「逃げようか」
「え?」
「この研究所から二人で抜け出しちゃおう。ほら、ここに誰も来ないだろ?さっき放送で火事だって言ってたみたいだし……。ここから抜け出してカルトンの君の家にでも行こう。今なら、誰にも見つからないよ」
そう言って、エトヴィンはルナの手を掴んで、立ち上がらせた。
★
重たい足を引きずる。
疲労ではなく、痛みで眉間に皺が寄る。分厚いコートを着ていれば、噛みつかれても大丈夫だと思っていたが、まさか、手袋と袖の間の腕を噛みつかれるとは思ってもみなかった。
「ああ……花……花が、咲いてる」
ルナは頭を抱えてしゃがみこんだ患者の傍まで歩いた。背中からは五十センチほどの大きな赤黒い花弁を揺らした花が咲いていた。確認してみると栄養となった患者はもう死んでいるようだった。クレマチスのような花が風に揺れる。
「採取して、家に持ち帰って、研究しないと……」
血を止めるために手首にベルトを巻いていたので右手の感覚がない。ルナはベルトを解いて、しばらく感覚が戻るのを待ってから鞄から採取セットを取り出した。さすがに花を全て持って帰ることはできないため、部位ことに少しずつ切り取って、丁寧に鞄の中に入れて、またそれを背負い立ち上がった。
「……返事を、しないと……」
甘えていたといえば、嘘になる。
いつまでも不摂生を直そうとしなかったのも、いつか好きな研究をしたいと夢を語ったのも。いつまでも隣でそれを注意してもらえると思った。エトヴィンなら絶対についてきて手伝ってくれると思ったからだ。
どこに行っても一緒なのだ、と。
だから、こんな危険な場所までついてきた。連れてきてしまった。
文句も言わずに、こちらが何も言わずにずっと一緒にいてくれるなんて、そんな傲慢がなかったら、こんなことにはならなかったかもしれない。
自分の不始末は、自分で片づけなければならない。
ルナは歩いた。
家を出たのは早朝だったはずなのに、自宅の前についた頃には夕陽が山の向こうに顔を隠していた。いつもは数分もかからないはしごを十分かけてのぼり、ルナは窓からダイニングに転がり込んだ。
今になって医療キットを鞄に入れていなかったのが、悔やまれる。
「感染してから初期の凶暴性が現れるまで、約三日……いや、今更、時間など気にしなくてもいいかもしれないな」
キッチンの棚の下の段から消毒液とガーゼと包帯を取り出す。
「……できる。やってみせる。エトヴィンだけでも」
ルナは、鞄をひっつかんで研究室に駆け込んだ。




