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山姥:菩提樹(中)



 辺り一面が赤く染まっている中で宇梶は生二狼の名を呼び続けていた。先ほど吹き付けてきた強い風は赤い飛沫(しぶき)をも舞い飛ばした。その直前には生二狼の苦しむ姿が見え、生二狼の体がバラバラに砕けるのが見えた。断末魔の声が聞こえ、そして宇梶は全身に生暖かくべったりとした赤い飛沫を浴びた。

 それでも宇梶は生二狼の名を呼び続け、応援し続けていた。宇梶には断末魔の声も赤い飛沫もバラバラになった映像も関係なかった。生二狼の兄貴がやられるはずが無い。すぐに方を付けて戻ってくるはず。それは確信であって、希望でも願いなんかでも無い。宇梶にとっては生二狼の帰還が絶対であって負ける事などあり得ない。一緒に闘えない事が無念であり、生二狼の名を呼び続ける事しか出来ないのが腹立たしいと思うだけであった。

 老人がそんな宇梶を見て頷き、静かに言葉を掛ける。

「惑わされてはなりませぬぞ。先程のは幻想でございます。心を惑わす魔でございます」

 先ほど目の前で起こった事は幻想だと老人は言う。それに惑わされてはいけないと。

「当たり前っす。さっきのは鬼子母神の婆さんの血反吐(ちへど)っすよ。兄貴が婆さんを凝らしめてるっす」

 宇梶は老人を見やり、当然のように返す。

 老人は厳しい顔付きの中で優しく笑うと、次に怯える子供達に目を向けた。

「さあ、祈り続けるのじゃ。皆の心が鬼子母神様の心に届けばまた必ずやお顔を見せて下さりますぞ。優しい仏のお顔で皆を迎えて下さりますぞ」

 子供達がまた一心に祈り始める。---早く元に戻って下さい、また暖かく抱きしめて下さい、お母さん、お母さん---。皆が(ひざまず)き目を閉じ祈った。大きくて優しい胸に(いだ)かれながら愛情をいっぱいに受けていた頃を思い、鬼子母神様、鬼子母神様、と強く祈った。

 その中にあって、女の子一人だけが立ち上がり後ろを振り返っている。女の子自身が駆けて来た長い道を顧みるように不安そうな顔で遠くを見ている。

「どうしたのじゃ?」

「ネズミのおじいさん、大変です。わたし、鬼子母神様にお伝えに来たんです」

 老人も遠くを見ると微かに眉間を寄せた。

「わたしお伝えに来たんです。あの子が出ようとしてるんです。公園から出ようとしてるんです。だからわたし、鬼子母神様にお伝えしなくちゃと思って」

「それはいかん……」と老人は呟き、怒ったように顔をきつくする。

 その二人のやり取りを聞いてた宇梶がキッと睨んだ。

「そんなの勝手に出たらいいっす! 今はそれどころじゃないっす!」

「成らぬ! 成りませぬのじゃ!」

 宇梶の言葉にすぐ老人が返す。

「それだけは塞がねば成りませぬ!」

 今までに無い老人の剣幕に宇梶はたじろいだが負けじと返す。

「な、なんなんすか。公園から出る事がそんなに大変な事なんすか」

「成りませぬ。断じて成りませぬ。あの場所から出る事は断じて成りませぬ」

「なんすか、出るくらいで何が悪いすか、そのガキがなんだって言うんすか」

「あの男の子は……」

「なんすか!」

「あの男の子は、お釈迦様がお隠しになられた鬼子母神様の最愛の末息子でございます」


 かつて鬼子母神が王舎城(おうしゃじょう)の夜叉神の娘で訶梨帝母(かりていも)と呼ばれていた頃、嫁いで多くの子を産みそして育てていた。その数は五百とも千とも言われている。それほどの数の我が子を育てる為に訶梨帝母は人の子を(さら)い、我が子に食い与え、また自らも人の子を食していたという。その姿はまさに鬼であり、子を持つ親は恐れ怯えて過ごし、我が子を拐われた親は嘆き悲しみの日々を恨み過ごしていた。その頃の訶梨帝母は傍若無人で狂暴であり、無慈悲であり横暴であった。人々は怒り、泣き、もう戻らぬ我が子を想い胸が引き裂かれるほどに暗く重く、癒される心を知らぬままに悲しく過ごしていくしか無かった。

 そこでお釈迦様が一計を案じ、訶梨帝母と同じ事をする。訶梨帝母の子を拐ったのである。その子は数多く居る中の一番の末っ子で、彼女が一番愛して止まないという子であった。

 訶梨帝母は狂乱し我が子を探し回った。七日七晩吠え叫び錯乱し暴れながら我が子の姿を探し続けた。名を呼び臭いを探し息づかいを求め回った。それでも見つからず憔悴しきった訶梨帝母はとうとうお釈迦様に泣きついたのであった。

「私の、私の我が子をお返し下さい。どうかどうか愛しい我が子をこの胸にお返し下さい」

「お前には沢山の子供がいるではないか。一人くらい居なくなっても何も変わりはせんじゃろ」

「あの子は、あの子だけは、どうか、どうかお願い致します」

 懇願する訶梨帝母をお釈迦様はきつく睨み付け強い口調で叱咤する。

「お前には多くの子が居るというのに、その中の一人が居なくなっただけでそんなにも嘆いておる。いわんやたった一人二人しか子を持たぬ親達の、掛け換えのない我が子を拐われた苦しみ悲しみ痛み辛みがどれだけのものかお前には解らぬか! お前にはまだ子が沢山おるが、お前が拐った子の親達にはもう子はおらぬ。二度と戻らぬのじゃ! その、地の底よりも深い絶望を知るがよい!」

 その言葉は訶梨帝母の胸を射抜き、己の行為がどれほど人々を苦しませ悲しませ罪深き事であったか、(ゆる)しを乞うても(ゆる)されるものでなく悔やんでも悔やみ切れぬ愚かな行為であったと気付かせた。訶梨帝母は改心し以後は子供を拐う事もなく、逆に自分の子はもちろん他の子全ての子を分け隔てなく慈しみ愛情を持って接するようになった。その後悟りを開き、訶梨帝母は子を守る仏鬼子母神となった。


「それで、あの子供がお釈迦のじいさんが返した子供ちゅうことっすか」

「さようでございます。さようでございますが……」

「鬼子母神様はあの子を抱く事が出来ないの。いつもお側で見守る事しか出来ないの」

 女の子が悲しげに訴えた。

「ねえ、ネズミのおじいさん、鬼子母神様にあの子を抱かせてあげて。そうすればまた鬼子母神様はお優しくなれるわ」

「それで済むならそうすればいいっす」と宇梶も頷く。

「それが出来ませぬのじゃ」と老人は返し、言葉を続ける。

「鬼子母神様はお釈迦様から我が子をお返し戴く際に、自らの戒めとして我が子をある場所に閉じ込めてもらうように御願いされましたのじゃ」

 その場所とは現実世界からもっとも遠くにあり、現実でない世界からも遥かに遠い場所にある。その場所に閉じ込める事に依って、鬼子母神には我が子を見る事も感じる事も出来るが、触れる事も話し掛ける事も出来なくなる。そうする事に依って、愛しい我が子を思う今の気持ちを持ち続けようとしたのであった。愛してやまぬ一番の末っ子を閉じ込める事に依って、自分の胸にも尊大なる母親としての愛を閉じ込めて消えぬようにしたのであった。しかし、其処に閉じ込められた子には母親を見る事も感じる事も出来なくなる。

「でもそれじゃあの子が可哀想過ぎる! あの子だって母親に抱かれたいはずよ! 甘えたいはず!」

「そりゃそうっす。子とはそういうもんっす」

「子はみんな母親を求めているわ。たとえそれが酷い母親であっても、みんなから恐れられる鬼であったとしても、子にとっては母親なの。いつもいつも母親を求めているの! 母親の胸で眠りたいの!」

 女の子は涙ながらに訴えた。自分が閉じ込められているかのように、今すぐにでも母親の胸の中へと飛び込んでいきたいかのように老人に訴えた。老人は驚いたように女の子を見詰めていたが、やがて寂しげに哀しげに、それても心を打たれたように言葉を漏らした。

「お前がそれを言うか……母親に虐待され続けていたお前が、それでもそう思うてやれるか……」


 この時突然、空に(ひび)が生じ、同時に皆の耳に針を突き通したように音が頭の中を走り抜けた。男の子が閉じ込められている場所から空に向け一本の稲妻が空を割らんとばかりに掛け走り、同時に悲鳴のような音が同じ場所からこれまた一本の矢のように皆の頭の中を掛け走ったのだ。

「うわぁっ、なんすかこれ」

 宇梶が頭を押さえ、子供達も悲鳴をあげて耳を塞ぐ。

 痛い、痛いよぉー、頭が割れるよぉー!

 老人も片膝をつき苦悶に顔を歪め、しかしかろうじて遠くを見てから叫んだ。

「いかん! いかん! あの子が出て来ようとしておる!」

 老人は恐れた。何千年も閉じ込められていた子が、自分を閉じ込めた張本人である母親と対面して何を思うか。そこに親子の絆は存在しうるのか。もはや恨み憎しみしかありえないのではないか。しかも鬼子母神様は以前の鬼のような姿に戻ろうとされている。女の子が言うようにたとえ鬼であったとしても、子には母親であり愛情を求め続けていると言うのか。いや、あり得ん、あり得るはずがない。もはや愛も情もそこにはなく、ただ怒りだけがあるのではないか。あの子が出て来てしまえば、必ず、必ずや母親である鬼子母神様と争われてしまう。それだけは、それだけはふさがねば、現世が、佛の世が、崩れてしまう。親子の、人としての、失ってはいけないものが崩れてしまう。ふさがねば、それだけはふさがねば。



 



完全妄想作り話にて史実と異なる箇所があります。

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