山姥:菩提樹(前)
鬼子母神さまー! 鬼子母神様ー!
子供達の声に呼応して、崩れ傷んだ扉がゆっくりと開き始めた。
お堂本体は崩れてしまっている。まわりには瓦礫が散乱し、その後ろには何処までも枯れた景色が続いていた。その中にあって扉だけが辛うじて立ち残り、僅かばかりに原型を留め重く苦しそうに少しずつ開いていった。しかし、開いた扉の奥は漆黒の闇。瓦礫も枯れた景色も無い。どこまでも無限に闇が広がっている。その扉は誰かを招き入れるように半分ほど口を開けて止まったが、今にもすぐに閉まってしまいそうにガタガタと音を立てて軋んでいる。
誰もがその扉を見ていた。生二狼も宇梶も老人も子供達も皆が扉を見ていた。女の子もじっと見ている。目を凝らし奥を見ている。
すると突然、「鬼子母神さまだ!」とその女の子が叫んだ。
老人が女の子を見やり、問う。
「鬼子母神様が見えるのか?」
女の子は扉の闇を見据えながら返事する。
「はい、見えます。奥、ずっと奥に鬼子母神さまがいます。鬼子母神さまが泣いています。鬼子母神さまを助けてあげなくちゃ!」
生二狼にも宇梶にも老人にも、鬼子母神の姿は見えない。けれど子供達には見えているのか、鬼子母神様! 鬼子母神様! と子供達が叫び出している。
「あの中に鬼子母神の婆さんがいるっすか? よし! オイラが行って引っ張り出して来てやるっす!」
宇梶が腕を回しながら扉へと近付いて行こうとする。が、老人はそれを止める。
「力ずくでは鬼子母神様を助け出す事は出来ませんじゃろ。そもそもあなたでは……いえ、失礼しました、貴方様では扉の中へは入れません」
「どうしてオイラは入れないっすか」
「あの扉の中は佛の世界。貴方様とは相容れません」
堕ち神になったとはいえ、宇梶はかつて神として崇められていた。鬼子母神は仏様。神と仏は住む世界が違う、故に宇梶では入れぬと老人は言う。
次に老人は、扉を見つめたままの生二狼の背に白く濁った目を向けた。
「貴方様にも神を感じます。……おぞましくも邪悪なる神を……」
その言葉に宇梶が反応する。
「生二狼の兄貴は死神の子じゃないっす!」今にも老人に飛び掛かりそうに言う。
「死神……確かに、大きな鎌を持った黒い姿が浮かびもします。しかしそれは別のもののようにも感じられます。……魔、死魔を感じます」
「しま……? なんすかそれ」
生二狼が扉を見つめたまま足を踏み出した。半分ほど開いた扉の、その奥に見える漆黒の闇へと歩き出す。
「仏の教えに、三障四魔と言うのがあります。三つの障りと四つの魔でございます。これは悟りの妨げとなる、人間の心の事でございます」
宇梶が歩き出した生二狼を見る。女の子が、子供達が生二狼を見る。生二狼は背中を向けたまま歩いていく。老人も生二狼を見たが言葉を続ける。
「四つの魔の中の一つに死魔と言うのがあります。死魔と言うのは修行者を殺害する魔でございます。あの方の中には、死神と死魔が混在しているように思われます……」
宇梶が恐ろしい顔で老人を睨んだ。
「死神も、死魔も、悪いモノじゃないっすか! 兄貴は、兄貴は! 生二狼の兄貴は……死神でも死魔でもないっす! オイラの兄貴っす! 悪いモノを祓うオイラの兄貴っす!」
老人に掴み掛かり揺さぶる。宇梶にとって生二狼は大切な兄貴である。死神の子であるはずがない。
老人はずっと生二狼の背中を見ている。
「ええ、あの方は死神ではありません。死魔に毒された憐れな死人でもありません。眩しくも有難い光をも感じます」
生二狼が扉の前で足を止めた。扉の奥では、生二狼を吸い込んでしまいそうに闇が蠢いている。
「……しかし、あの方の体の中には死神と死魔が混在しているのも事実。二つのものが互いに相手を飲み込もうと、あいまみえております。いえ、私には、死魔が、あの方の死魔が、体に巣くう死神の子を飲み込もうとしているように思えまする」
「どちらにしても悪いモノじゃないっすか! 生二狼の兄貴は悪いモノじゃないっす! 悪いモノを祓う良い人っす!」
宇梶が更に強く老人を揺さぶった。老人はそれには答えず、しばし口をつぐみ生二狼を見ている。
生二狼が僅かに振り向き皆の顔を見る。
「宇梶くん。皆さん。鬼子母神様を想い、祈ってて下さい」
しばらく皆の顔を眺めたあと、また前を向き扉を見つめ、そして足を踏み出し扉の中へと入っていった。
「兄貴……」老人の襟を掴んだままの宇梶が掠れた声で言う。
生二狼が扉の中へと入っていく。そこは漆黒の闇、生二狼の姿はまるで闇に溶けるようにすぐに見えなくなった。生二狼を飲み込むと扉はゆっくりと閉じていき、静かに霞み揺れながら、燃え尽きた線香の薄い煙がたゆたうように、生二狼を飲み込んだまま皆の眼前から消えていった。
「兄貴……兄貴は、どこに行ったっすか!」
「あの扉の中は鬼子母神様そのもの。鬼子母神様の心の中。それは正に佛の世界。あの方は……あの方は、佛の世界に入る事を許された……」
「兄貴は、兄貴はどうなるんすか!」
子供達が跪いて静かに祈り始めた。小さな子、大きな子、怪我をしてる子、痩せた子、裸足の子。皆が手を合わせ目を閉じて祈り始めた。鬼子母神様、鬼子母神様、と。
扉が、お堂が、散乱していた瓦礫までもが消えていく。始めから何も無かったかのように全てが消えていく。しかし蠢いている。扉の形に、お堂の形に、鬼子母神の苦悩の形に。その場所だけが蠢いている。鬼子母神の嘆きの形に。
声が聞こえるようでもある。それは鬼子母神の怒りの声のようであり、それに答える生二狼の穏やかな声のようであり、鬼子母神の泣き声のようであり、生二狼の苦しむ声のようであった。蠢く空間がお堂を形作り、鬼の形相となり、仏の微笑みとなり、火の地獄となり、蓮の花が咲く池となった。その空間だけが蠢き続ける。
「なにがどうなってるすか」
「合いまみえております。鬼子母神様と、あのお人が……禅問答のようにお互いに問うております。世の理を、世の常を、無常を、空を」
「なんの事だかオイラにはさっぱり分からないっす。けど鬼子母神の婆さんは仏じゃないっすか? そんな相手に勝てるんすか」
「分かりませぬ、分かりませぬが今は祈って待つしか御座いませんじゃろ。さあ、祈りましょう」
「うぅぅぅ」と宇梶がもどかしそうに拳を握る。
皆が祈った。鬼子母神の為、世の為、生二狼の為にと。宇梶だけが蠢く空間を睨んでいた。その空間の蠢きがだんだん薄く静かに少しずつ消えていく。まるで、散り落ちていた花びらが柔らかく吹く風に舞い消えいくように、生二狼を飲み込んだままの蠢きが徐々に小さくなっていき、やがて目の前から跡形もなく消えた。
長い時間が流れた。皆は祈り続けた。お堂も鬼子母神も生二狼も現れず、ただ空間だけがずっとそこに存在し続け、皆の祈りの声だけが時を刻む。
「……くそっす」
宇梶はじっと待ち続けていた。「宇梶くん、終わりました。帰りましょう」と生二狼が現れるのを。暴れだしたい衝動を堪えじっと待ち続けた。が、それも限界に達した。
「くそっす! どうなってるすか! じいさん」
「祈りなされ。信じて祈り待たれますのじゃ」
「もう待てないっす! オイラが兄貴を助けに行くっす! 鬼子母神の婆さんの居場所はどこっすか!」
「行けますまい、貴方様には。我々にも行けません。選ばれたお方にしか行く事も観る事も出来ますまい」
「くそっ、くそっ、くそっ! 婆さんは本当に仏なんすか! 仏なのに何で悪さをするっすか! 何で山姥になんかになったっすか!」
「穢れで御座います。世が穢れておりますのじゃ。荒んでおりますのじゃ。子を思う尊い親の心が乱れておりますのじゃ。子を守るべき親が逆に子を傷め、いたぶり、殺めておりまする。それらを鬼子母神様は嘆いておりまする。お怒りになられておりまする」
「だから! だからこそ婆さんが子を守るんじゃないっすか! その為の仏じゃないっすか!」
「信心が、信心が薄れておりますのじゃ。皆の心から信心が消えていっておりまする。故に見えておりませぬ。聴こえておりませぬ。御仏のお姿を、お声を、信じる心が足りませぬ、鬼子母神様の悲痛なお声が届いておらぬので御座いますのじゃ」
「そんなもん、無理やりにでも目の前に現れて悪い親を張り倒してやったらいいっす!」
「御仏は皆の心の中におわします。良きも悪きも無く、全ての人の心の中にもおわします。しかし、清んだ心が無ければ御仏の御姿を見る事は出来ませぬ。御仏の御声を聴く事は出来ませぬ」
「だからって、なんで山姥になるっすか! 子を喰らう山姥なんかに!」
老人は目を閉じ、ゆっくりと呟くように言葉を出す。
「戻られてしまわれようとしております、かつてのお姿に。鬼子母神様は鬼じゃった。山姥のように人を喰らう鬼じゃった……」
老人のその言葉を聞いたかのように、突然目の前にお堂の姿が浮かび上がった。それは崩れた姿では無く荒んだ姿でも無い、何一つ欠けた所のない元のお堂の姿ではあった。しかし、色が無い。かといって無色でも無い。目の前にあると解るのに、はっきり見ようと目を凝らすと消えてしまい、近くのようで遠くのようで、大きいようで小さいようで、自分がお堂の中に居るかと思えば自分の手のひらの中にあるようで、目を開けていても閉じていても立体的であって絵画のようでもあった。確かにお堂が在る事だけは感じられるのに、それは眼球が見ているのか脳内に映し出されているものなのかも判然としない。色の無い実体も無いものだった。ただひとつ言える事は、総毛立つほどにおぞましい姿に感じられた。心の臓を握り潰されていくような不快感が襲い、ハラワタをえぐり取られていくような嫌悪感に見舞われ、全身の血液が滲み出ていくような絶望に押し潰されそうになる。
「な、なんすか……あれは……」
宇梶が倒れそうになるのをなんとか片膝をついて堪えた。老人は苦しそうに胸を押さえる。子供達が泡を吹き出す。
「あ、あれは……兄、貴……兄貴が」
目の前なのか脳内なのかも解らないまま宇梶には生二狼の姿が見えた。浮かんでは消え、浮かんでは消え、前に後ろに上に下に現れる。その生二狼はお堂の中で苦しんでいた。傷つき、もがき、悲鳴をあげていた。木に吊るされ鞭で打たれていた。首から下を土に埋められ、出ている顔は獣に食われていた。赤く燃えた石の上で煮えたぎった油を飲まされていた。生二狼の身体は痩せ細ろえ、生気なく白眼を剥いている。
「あ、あ、兄貴!」
風が吹き付けて来る。生暖く、前から後ろからそれは吹き付け、毛穴という毛穴から身体の中に入り込み耐え難いほどに吹き流れていく。すぐに風は強くなり、もはや目も開けていられなくなった。それでも見えている。お堂が。生二狼が。
生二狼が何かを言ってるように口を動かしている。しかし、何も聞こえない。ますます風が強くなる。生二狼の言葉に反応して更に風は強くなる。その言葉を吹き飛ばしているかのように、反発しているかのように、怒りが沸き出しているかのように、生二狼の口が動く度に風は強さを増す。それでも生二狼は口を動かし続けている。鬼子母神に訴えかけているかのように。鬼子母神に問うているかのように。
風は更に強くなった。これまでとは比較にならないほどに。目を口を内臓を叩いてくる。まるで矢のように突き刺さってくる。宇梶の気が遠くなっていく。遠くなる意識の中ではズタズタにされていく生二狼の姿が眼球に脳内に迫ってくる。その生二狼は訴え続けている。言葉を発し続けている。けれど聞こえない。何も聞こえない。風は強度を増す。強く大きく塊となって当たってくる。全てが風になる。全ての向きから押し潰しにくる。生二狼の身体が潰されていく。欠けていく。飛ばされていく。
「兄貴、兄貴ぃぃ!」
一段と風の圧力が増した。海そのものが黒い津波となって遥か頭上から落ちてきた、宇梶にはそう思えた。風に飛ばされ生二狼の身体が粉々に碎け散ったように見えた。生二狼の断末魔が聞こえたような気がした。この世の全てが、無限に小さな点に押し込められていくように感じられた。
「兄キィィーー」
宇梶の顔に体に、老人の顔に体に、子供達の顔に体に、びしゃりと何かが吹き付けてられてきた。風はひとしきり飛沫を吹き付けるとピタリと止んだ。お堂も生二狼の姿も消えた。時が止まったようにあらゆるものが静止した。
呻くような音だけが微かに聞こえていた。宇梶が目を見開き自分の手や身体を凝視している。開かれた口はワナワナと震え、喉の奥から呻きの音を漏らしていた。他の者も自分の身体中に吹き付けられた飛沫を見て驚き固まっていた。
身体中に浴びた飛沫がドロリと垂れていく。顔からも手からも、それは赤く黒く温かだった。体温の温もりのように、先ほどまで体の中を流れていたように。
宇梶の脳裏に映像が甦る。強い風が吹き荒れ、生二狼の身体が粉々になり真っ赤な飛沫が飛び散る。
宇梶は辺りを探しだした。「お堂はどこだ」「生二狼の兄貴は」「どこだ、どこだ、どこだ!」
何処を探しても何も無かった。それでも宇梶は探し続けた。生二狼の名を呼び続けた。
アニキィィィィーーーーーー!
アニキィィィィーーーーーー!




