山姥:後編(後)
鬼子母神さま~
鬼子母神さま~
女の子が一生懸命に走っていた。慣れぬ道に何度も転びながら、横たわる動物の死骸に怖がりながら、それでもまっすぐに走り続けていた。
「鬼子母神さま~、大変です~、鬼子母神さま~」
お堂に近づくにつれ、靄は濃くなり視界が悪くなる。そのため女の子は何度も転んだ。それでもすぐに起き上がりお堂を目指す。もう着いてもいい頃なのに、お堂がまだ見えない。
「おかしいな~? 山門も見当たらない。どうしたのかしら?」
女の子は立ち止まり、濃い靄の中、辺りを見回す。お堂や山門は、いつも遠くからだけどちゃんと見えていたのに、少しずつ傾いているようにも見えてたけどちゃんと建っていたのに、と不思議に思う。
女の子は前に一度だけ来た事があった。この場所に招かれた事があった。山姥に食べられてしまった後だ。あの時女の子は、怖くて痛くて泣き叫んでいたけど、食べられながら別の感覚も持っていた。とても温かくて、優しいものが包み込んでくれる感覚。
お母さん。優しかった頃のお母さん。愛しい目で、慈しむ目で自分を見てくれていた頃のお母さん。あの頃のお母さんが包み込んでくれている。女の子はそう感じていた。
足をもがれ、腕をもがれ、恐ろしい顔の山姥に食べられながらも、女の子は感じていた。お母さんを。
現実のお母さんも、恐ろしい顔で自分を殴っていたけど、いつもいつも殴ってきたけど、それでもその中に優しいお母さんがいた。小さく、ずっと奥の方にだけど、確かに優しいお母さんがいた。そのお母さんは泣いている。恐ろしい顔の下で、優しいお母さんは泣いていた。私を食べている山姥も一緒だ。恐ろしい山姥の中に優しいお母さんがいる。優しいお母さんが泣いている。泣きながら自分を包み込んでくれている。
女の子は鬼子母神に抱かれていた。優しい顔で見詰めて髪をとかしてくれている。お母さんだ! と思った。
女の子が微笑むと、鬼子母神もニッコリと微笑み頷いた。山姥はいない。痛みもない。恐ろしさもない。山姥に食べられていたのに、気が付くとお堂の中で鬼子母神に抱かれていた。
それからしばらく、女の子はお堂で過ごした。お堂の中には沢山の子供達が遊んでいた。楽しそうに、幸せそうに。みんな鬼子母神をお母さんと慕っていた。女の子もここで一緒になって過ごした。楽しく幸せに。殴られる事もない。苛められる事もない。下着だけで外に出される事も、衣装ケースに閉じ込められる事も、タバコの火を押し付けられる事も。
楽しかった。嬉しかった。温かだった。
でも、その鬼子母神がときおり苦しそうに辛そうに顔を険しくする。顔を歪めきつい言葉を吐き捨てる。振り上げてしまいそうになる手をじっと堪えて体を震わせる。そんな時、女の子は鬼子母神の影に山姥を見た。
ある日、鬼子母神が女の子に言付けた。
「ここからずっと真っ直ぐに行くとあの公園がありますから、そこで男の子の相手をしてやっておくれ。お前が友達になってくれた男の子だよ」
そこには山姥は現れないから、と。
それ以来、女の子は男の子と共に公園で遊んで過ごしていた。山姥に食べられる前、いつかは帰らないといけないと思いながら遊んでたあの日以来だ。楽しい時間だった。何年も遊んでいる気もするし、まだ一日が終わってないような気もする。お母さんに会えないのは少し寂しいけど、ずっと遊んでいられる事が嬉しかった。男の子も楽しそうだった。
その男の子の様子がおかしくなった。迷子になった子供が母親を探すように、怖い夢を見た後に母親の名を呼ぶように、それまで遊んでいたのに突然泣き叫びながら公園の回りを走り始めた。今にも公園から出て行ってしまいそうになった。
「あの男の子と遊んでやっておくれ。公園から出て行ってしまいそうになったら止めてやっておくれ」
鬼子母神に言われていた。決してあの場所から出さないようにしておくれ、と。
それが今にも出て行ってしまいそうだ。女の子は必死に宥めようとしたが、男の子は止まらない。ただ泣き叫び走り回る。
「鬼子母神さまに知らせなくちゃ」
女の子はお堂へと走って行った。
「鬼子母神さま~」
大声で呼んでも返事がない。沢山居た子供達の声も聞こえない。女の子は不安になった。道を間違えたのかな、と道を確かめてみた。すると道の端に穴が空いてある。少し離れた反対側にも、もう一つ穴が空いていた。何だろう? と見ていると、その穴から古びた木が浮かび上がってきて、どんどんと形を成していった。女の子はそれに見覚えがある。
「山門だ!」
やっぱりここで良かったんだ、と安心していると、女の子を呼ぶ声がした。
「鬼子母神さま!」
女の子が声を出すと靄が微かに晴れた。女の子の声が波となって靄を掃いていくように、少しずつ視界が開けてきた。すると、子供達の姿が見えた。みんな倒れている。うつ伏せになっていたり、仰向けになっていたりしてみんな動かない。「大変だぁ~!」と女の子は駆けて、一人の子を揺すって声を掛けた。
「大丈夫? ねえ? 大丈夫?」
半分だけ目を開けた。でも女の子を見ずにうわ言のようにつぶやくしかしない。
「お堂が……鬼子母神様が……山姥だ……」
気が付くと、周りの子供達がみんな頭を抱えて丸くなり怯えていた。
鬼子母神様が、鬼子母神様が、山姥だ! 山姥だ! お堂が、お堂が! あー! 駄目だ!
終わりだ!
「お堂がどうしたの!」
誰も答えてくれない。怯えて震えている。お堂の方を見ると、薄靄の中に在るべきお堂がない。鬼子母神のいるお堂が跡形もなく崩れている。一部にだけ、まだ濃い靄が残っていてそこだけに辛うじて何かが立ち残っていたけど、それ以外には何も残っていない。
「お堂がない……」
女の子は呆然とお堂とみんなを交互に見ていた。
お堂が無い……みんなうずくまっている……お堂が無い……みんなうずくまっている……お堂が無い……みんなうずく……
うずくまる影から三つの影が立ち上がるのが見えた。そのうちの一つは見知った顔だ。
「あっ! ネズミのおじいさん!」老人に駆け寄り肩を貸す。
「おじいさん大丈夫?」
老人はようよう立ち上がり、お堂が建っていた方を見ている。女の子が支えているが、また倒れそうであった。そこへ同じく立ち上がったばかりの背の高い青年が近寄り体を支えた。生二狼だった。遅れて宇梶も近寄って来た。
「ああ、あああ……何て事じゃ」
わななく老人の手を女の子が強く握り直す。生二狼は目を細め、瓦礫の山となったお堂の跡を見ていた。一部にだけ濃い靄が残り蠢いている。消えそうでいて消えず、大きく小さく形を変え、薄く濃く色を変えその場に留まり続けている。宇梶はごそごそと薬を取りだし、うずくまる子供達に塗りはじめた。
「こいつらにも効けばいいっすけど」
「何て事じゃ……何て事じゃ……」
老人は呟き続けている。心配そうに女の子がその顔を覗き込んでいる。老人の片目に崩れたお堂が映っている。女の子は首を傾げ、更に顔を近づけ老人の顔を覗き込んだ。もう片方の白く濁った目を見詰める。いつもは閉じていて、たまに開いてる時には白く濁っただけの目。何も映し出す事の無い白く濁った目。その目に何かが映っている。女の子はじっと見ていた。靄のようなものが大きくなったり小さくなったりしている。なんだか見覚えがあった。優しい気持ちになった。温かに感じた。
鬼子母神さまだ! と女の子は思った。
「鬼子母神さまー!」
振り向き叫んだ女の子の声が波となり、最後まで残っていた濃い靄を散らし始めた。
靄が消えていき、そこに隠されていたものが姿を現し始めた。
生二狼が、宇梶が、身構えた。
白衣の老人が、女の子が、子供達が固唾を飲んだ。
最後の靄が、すうっと消えて、そこに扉が現れた。お堂にあった扉が、固く閉ざされていた扉が、鬼子母神の心に通ずる扉が、お堂が崩れた後も辛うじて立ち残っていた。しかしそれは、傷み、傾き、割れて穴が開き、扉の用を成していない。それでも扉は最後の力を振り絞っているように立ち続けていた。
鬼子母神さま! 鬼子母神様っ!!
女の子が、子供達が声を出した。それに呼応するかのように、用を成していない扉が、扉であり続けようとするかのように、ゆっくりと開いていった。




