山姥:菩提樹(後1/2)
生二狼は、そこだけポッカリと開いたお堂の扉に足を踏み入れた時から、ぼやけた五色の膜の中をふわりふわりと漂いさ迷っていた。
その中で生二狼は限りなく小さくなっていた。無ではないが存在しないほど小さくなっていた。そして激しく振動していた。振動しながら雲のようにふわりふわりと膜の中を漂い、遠く近くに声を感じていた。それは鬼子母神の声であると、それ以外にここには存在しうるはずが無いと感じていた。しかしそうではなくそれらは苦しむ人々の声であるとも感じていた。
生二狼が漂うそこには何も無かった。足を着ける地も、掴むべき物も無かった。そもそも生二狼には地に着ける足も、掴むべき腕も無かった。意識だけが全てとなり、その全てが宇宙となり、その宇宙が空に浮かぶ塵となり、その塵が宇宙の意識となっていた。その意識が激しく振動し、現れては消え、消えては現れ、たった一つのようで無数に存在し、無数に存在しているその全てが重なり合い一つとなり、その一つが無数の中の一つとなっていた。
その中で感じていた鬼子母神の声は、音でも文字でもなく、遠くで近くで揺らいでいた。その声に生二狼は悲しみを感じる。とても深い、あまりにも深すぎる悲しみを。
まるで自分が涙となって頬を伝い流れ落ち消えいくような感覚の中で、生二狼は「違う、違う」と叫んでいた。遠くを近くを揺らぐ鬼子母神の声に押し潰されそうになりながらも必死に抗っていた。しかしその嘆きはあまりにも深く大き過ぎた。生二狼にはどうする事も出来ないまま、ただ振動し続けるしか出来ないでいた。その振動でさえ、深く大きな悲しみに吸い込まれ、押し潰され、覆いつくされ、飲み込まれようとしていた。
どんなに懸命に抗っても振動はしだいに緩くなっていき、生二狼の意識は縁なしの暗黒の穴へと落ち込み続けていく。悲しみを一点に集め果てしなく落ち込む暗黒の穴。悲しみだけが無限に落ち込み続ける暗黒の穴。その中へ生二狼は落ち込んでいく。意識は引き伸ばされ、粉々に吸い潰され、エネルギーは放出され、全てを凝縮した無の暗黒の穴へと落ち込み続ける。それでも生二狼は抗い続けていた。
違う、違う、違うんだ。
子は、子の悲しみは、帰る場所が無くなる悲しみなんだ。子はいつでも帰る場所を、帰れる場所を求めてる。温もりを、包み込んでくれる暖かい温もりある帰れる場所を求めてるんだ。
その場所が無くなるのが悲しいんだ。いつでもそこに、あってほしいんだ。いつでも帰れるように、ちゃんとそこにあってほしいんだ。
その場所が無くなるのが悲しいんだ。
生二狼は落ち込んでいく。暗黒の穴へと。
その先に鬼子母神の顔が見え始めた。その顔は泣いていた。泣きながら鬼子母神もまた落ち込み続けている。暗黒の穴、悲しみの穴、嘆きの穴へと。慷慨の穴、虚無の穴、鬼哭の穴へと。鬼子母神が飲み込まれていく。その穴へ生二狼も飲み込まれていく。
生二狼は意識の全てを集中し、暗黒の穴へと落ちて行く。
泣いている鬼子母神。泣きながら落ちていく鬼子母神。その鬼子母神を追い掛けるように、生二狼は意識を伸ばしていく。しかし暗黒の穴はどこまでも落ち込み続け、いつまでも鬼子母神に追いつく事は出来なかった。
暗黒の穴。全てを飲み込み落とし込んでいく悲しみの穴。泣いている鬼子母神と追いかける生二狼が落ちていく暗黒の穴。その穴へと二人はいつ果てるとも無く無限に落ち込み続けていた。意識の振動は落ち込むほどに引き伸ばされ、一本の紐になろうとしていた。その紐も引き伸ばされ完全に無になろうとしていた。
その時、遥か天上で小さく光るものがあった。それは小さく弱かった。しかし、光ると同時に真っ直ぐ落ちていき、生二狼の意識を突き抜け、更に先へと掛け走った。生二狼はそれに暖かみを感じた。確かに暖かいものが突き抜け、更に下へ、落ち続ける鬼子母神の元へと走って行くのを感じた。
その光は穢れなく真っ直ぐに、迷う事なく真っ直ぐに、鬼子母神の元へと走っていった。疑うこと無く、惑いも無く、滝を流れる一筋の清水のように、キラキラと光りながら、鬼子母神の元へと真っ直ぐに走っていった。他のものに一切目も向けず、真っ直ぐに母親の元へと掛け走る子供のように。
そして、その光が鬼子母神の元へと届く。
泣いている鬼子母神がはっと顔を上げる。
その目は遥か天上を見上げている。
その目から、それまでと違う涙が零れ落ちた。
鬼子母神が手を伸ばす。生二狼も意識を伸ばし手を伸ばす。二つの手が絡み合い、繋がり、引き合う。二つが一つとなり、吸い込まれ落ち込んでいく流れに逆らい始める。
鬼子母神の顔は天上を見ている。生二狼を越え、遥か天上を見ている。何かを抱きしめようと、鬼子母神の手が伸びていく。愛しいものを、大切なものを、かけがえのないものを、掴み取ろうと遥か天上へと伸びていく。
その伸び行く手にすがるようにして、続いて鬼子母神の顔が、体が、御霊が、暗黒の穴から抜け出して来た。遥か天上を目指し、落ち込み続けながらも徐々に抜け上がり始めた。
遥か天上を見ていた鬼子母神が生二狼に気付きその顔を見る。つと、その顔が笑う。仏の顔で生二狼に笑いかける。
生二狼も笑い返そうとした。
しかし、暗黒の底で蠢くものがあった。
暗黒よりも更に黒く、濃く、おぞましく蠢き、
這い狂いながら、狂い散りながら、散り増えながら、
鬼子母神の体にまとわり、食い破り、刺し突き通し、
引き戻さんと[邪]が滑りついてきていた。
突然、鬼子母神の顔から笑みが消える。その顔が哀しみの顔となり、生二狼の手と絡み合い一つとなっていた鬼子母神の手が解けていった。鬼子母神の手がずり落ちていく。生二狼の手から離れ始めていく。
暗黒の穴の奥から、無数の[邪]が這い出し鬼子母神の体にまとわり引き戻している。鬼子母神はもがき抵抗していたが、無数の[邪]が数を増やしその体を引き摺り込んでいく。
だめだ! 鬼子母神様! 離してはいけません! この手を、この手を! 離してはいけません! 鬼子母神様!
鬼子母神はもがき苦しみ足掻いた。手を離してはいけない。堕ちてはいけない。愛しい、愛しい我が子を再びこの手で抱きしめるまでは、堕ちていけない。この手を離してはいけない、と。
しかし[邪]の数は増え、鬼子母神を暗黒の無限の穴へと引き摺り込み続ける。二つの手は引き離されていき、僅かに繋がるばかりとなった。もう間もなく二つは離れてしまう。
もがき苦しむ鬼子母神が生二狼を見る。その顔は苦悩に満ちていた。変わりたくとも変われない、愛したくとも愛せない、抜け出したくとも抜け出せない、もどかしく、はがゆく、やるせない気持ちの持ち行く場所が分からずに、邪険に剣呑にヒステリックに行動してしまい、それを後悔するも処理の仕方が分からずに暴力を振るってしまう。邪のスパイラルに嵌まり込んでしまった人々のように、醜くも哀れな、苦悩の顔であった。
鬼子母神の顔は歪み潰れ変化しながら、やがて山姥の顔となった。しかしその顔は鬼でも魔でも無く、湖面に映る月のように、僅かな風だけで消えてしまいそうな儚げで虚ろげな顔であった。
その顔が笑う。
悲しく切なく寂しく、笑う。
山姥の顔で、虚しく、笑う。
笑いながらも山姥の目からは、涙が流れ続ける。
二つの手が離れる。そして、無数の[邪]が鬼子母神の体を一気に引き摺り込んだ。
あぁ、我が子よ 愛しい我が子よ
赦しておくれ こんな母親を、赦しておくれ
仏陀様、申し訳ございません
未熟者のわたくしを罰しくだされ
けれども、我が子を、我が子だけは、どうか、どうか、どうか…………
暗黒の穴に飲まれ鬼子母神の体が消えていく。僅かに手だけが残こり、かろうじて何かを掴もうと伸ばされている。しかしそれも飲み込まれようとしていた。
鬼子母神さまっーーーー!!
生二狼は叫んだ。もうどんなに伸ばしても届きそうにない。鬼子母神が消える。
鬼子母神さまっーーーー!!
その時また遥か天上で光るものがあった。それは暗黒の穴へと猛烈に突き進んだ。先ほどよりもより一層強く大きく光りながら、生二狼の意識を突き抜け、[邪]が蠢く暗黒の穴へと、無限に落ち込む暗黒の穴へと、その奥に僅かに見える鬼子母神の手の元へと、ただ一点を目指し突き進んでいった。
生二狼の体に再び何かが突き抜けていった。その瞬間、生二狼は暗黒の穴から弾き飛ばされた。光は生二狼だけで無く、そのまわりの全てをも吹き飛ばし、更に奥へ、更に下へと突き進んで行った。
そして生二狼には、どさりと地に落ちた感覚だけが残った。
風が吹き荒れ、激しく雨が打ちつけている。
公園のある場所の空が割れ、そこから一度目の、一筋の光のような音が発せられた時、その音は皆の耳を貫きそのまま吸い込まれるように何処かへと流れ消えて行った。その後、その音を拒絶するかのように風雨は強まり、空が大地が荒れ狂い始めた。子供達は耳を塞いだまま倒れこんでいる。その中に宇梶もいる。
その中にあって、老人だけが立ち上がり、耳から血を流し、固く印を結び、経を唱え強く念を送り続けていた。
老人の体に横殴りの雨が吹き当たり、その雨が滝のように流れ落ちている。強くなるばかりの風は何度も老人の体を揺らし転がし倒している。その度に老人は立ち上がり経を唱え続けていた。
雨は老人の片方の目を閉じさせていた。口だけが操られているかのごとくに経を唱え続けている。老人の意識は朦朧とし、ただあの子の声を届けさせてはいけないという強い思いだけに捕らわれていた。片方の目は閉じられ、もう片方の目も横殴りの雨で視界を遮られ、耳に届くのは吹き荒れる風の音ばかりである。老人は経を唱える為だけに何度も起き上がり言葉を発していた。だからか、近くで渇仰する小さな声には気付いてはいなかった。
「ダメェー! ダメェー! あの子の思いを消しちゃダメェー!」
女の子が叫んでいた。なんとか半身になり必死に声を絞り出していた。しかしその声は風に消され、経を唱える老人には届いてはいない。
「ネズミのおじいさん! あの子の思いを鬼子母神様に聞かせてあげてー!」
老人は背を向けて経を唱え続けている。
ネズミのおじいさんを止めなくちゃ、と女の子は叫びながら這っていく。
先ほど自分の体に何かが突き抜けた時、男の子の声を聞いた気がした。その声に暖かいものを感じた。伝えなくちゃ、ネズミのおじいさんにその事を伝えなくちゃ、と吹き荒れる風雨の中を懸命に這って行った。
「ネズミのおじいさーん! おじいさーん!」
あの子は憎くて怒ってるんじゃない。公園から出ようとしているんじゃない。鬼子母神様を助けようとしているだけ。母親を助けたいだけ。だから止めないで。思いを届けさせてあげて!
「おじい……さん」
ネズミのおじいさんは経を唱え、男の子の思いを消そうとしている。
「早く行かなくちゃ……」
女の子は懸命に這っていきようやく老人の元に着いた。すぐに老人の足にすがりつき叫ぶ。
「ダメ、やめてっ!」
「こ、これ、なにをする。邪魔するでない」
「ダメ、ダメ、ダメー!」
「何がダメだ。鬼子母神様のお子が公園から出ようとしておられる。お怒りになられておるんじゃ。鬼子母神様を憎んでおられるんじゃ」
「違う! 違うの!」
「違うもんか、こんなにも空が荒れておるでわないか! ええい、離せ、離すんじゃ!」
老人が、女の子を離そうと足を強く振り上げた。しがみついていた腕が離れ、女の子が転がっていく。老人は転がる女の子を見ていた。女の子はゴロゴロと転がった後、ヨロヨロと立ち上がり何か叫んでいる。老人はしばらく見ていたが、叫んでいる女の子と目が合うと一瞬たじろぎ直ぐに背を向け、再び経を唱え出した。
「ダメー! ダメー!」女の子は叫び続けていた。
止めなくちゃ、止めなくちゃ、ネズミのおじいさんを止めなくちゃ。ネズミのおじいさんはわかってないんだ。見えていないんだ。本当のことが見えていないんだ。
「ネズミのおじいさーん!」
老人は叫ぶ女の子を見ていた。
「あっ!」
女の子を見る老人は片目を閉じていた。その事に女の子が気づく。
「白い目を閉じてる。ネズミのおじいさん、白い目を閉じてる。だからだ、だから本当のことが見えていないんだ」
女の子は思いだしていた。前に老人が、子供の頃に失明した目がいつからか白く濁りだし、それ以来、物事の真実が見えてきたと語っていた事を、此処にいる時も大事な時にはいつも白い方の目で見ていた事を。それが今は白い方の目を閉じている。
「雨のせいかな? 風のせいかな? どうしよう? どうしたらいいんだろう?」
老人はすでに背を向け経を唱えている。
「止めなくちゃ、お経を止めなくちゃ。そうしないとあの子の思いが届かない」
女の子は立ち上がりなんとか歩き始めた。けれど風が強くなかなか前へと進めない。
「どうしよう……お経を止めなくちゃ…………あっ、そうだ、あれだ!」
この時、風の向きが変わった。吹き荒れる風の中で、一つの風だけが違う風のように、女の子の背中を押した。その風はとても暖かく、まるで男の子が押してくれているように優しかった。
「ありがとう」と女の子は背中を押してくれる風に言ってから、老人に向かい飛びついた。
風がぐんぐんと押して、女の子は老人のとこまで飛んで行く。
「ネズミのおじいさーーん!」
女の子に飛びつかれ、老人が倒れ込む。
「こ、これ! 何をするか! 離れんか! 離れんかっ!」
老人は女の子を引き離そうとしているが、女の子は懸命にしがみつき、同時に老人の腕を掴んで袖口の中へと手を突っ込む。
「あった」
老人の袖口から小さな鈴を取り出す。それはいつも老人が持ち歩いている持鈴であった。




