山姥:中編(後)
「うぐぐ、宇梶……くんを……宇梶くんを、つむじ風から放せ……」
「ゴワゴワは姿を変えるだけ、元の姿に戻るだけじゃ。しかし、お主はのぉ。戻せんのぉ。お主を還らす事は出来んのぉ。……消滅せい。今すぐ消滅せい。この世から消滅せい。お主なんぞ消滅するがよい。わしが消滅させてやる。この世から消滅させてやるわい」
「ぼ、ぼくは……」
「無念か? 無念じゃろ? 悪いのぉ。わしは嫌いでな。アイツが嫌いでな。アイツの子がこの世に居るのは許せん。消滅するがよい。――死神の子よ!」
「死神の子ではない! 僕は……トノサキ、セイジロウ……貴女を、成仏させし者」
ズシン、ズシンと老婆は生二狼との距離を縮めていく。手に持つ包丁を振り上げ、一突きで仕留めようと力を込める。
「のこのこと、わしの前に現れおって、悔やむがよい。たいした力も無いのにわしの前に現れた事を悔やむがよい」
「僕は……外崎生二狼。貴女を、貴女を……成仏させし者。貴女の過ちを認めさせ、本来の姿に……戻す為に来た」
老婆は立ち止まり、首を傾げてからニタリと笑う。
「過ち? 過ちとな。笑止! 何が過ちじゃ? 逆じゃ、わしが正しておるのじゃ。過ちを正しておるのじゃ!」
「貴女は……間違っている。どんな事があっても子を殺めるべきではない!」
「ほう。あの女の子はどうじゃ? あの女の子は親から虐待を受けておったんじゃぞ。生かしてみろ。生かし続けてみろ。地獄じゃ、まさに地獄じゃ。哀しみ苦しみ傷つきながら生きていかねばならぬのだぞ?」
「だからと言って貴女が殺めるべきでは無いのです。貴女が奪っていいものでは無いのです!」
「かっっ! 腐抜けた事を。奪ったのでは無い! 助け出したのじゃ! 地獄から助け出してやったのじゃ! あの女の子も、それまでの子供達もなっ!」
老婆のゴロゴロと動く目が血走り、生二狼だけを見据えた。動きをとめ生二狼だけに焦点を合わす。
開いていた口をガシリと閉じると、すぼめるようにして生二狼に巻きつく長い舌を細く固くさせ、更に生二狼を締め付け肌に食い込ませていく。
「がぁぁぁっっ――! う、ぅぅ、ぐぅぅっ……鎮まれ、鎮まるんだ」
生二狼は腹に力を籠める。
先ほどから、いや、この地を訪れた時から生二狼の腹の痣は蠢いていた。この期に及び痣は暴れ飛び出し、この世成らざる老婆に襲いかかろうとしていた。
それを生二狼は戒め鎮めようとする。
まだだ。まだ時ではない。今、この老婆を鎮めても問題は解決しない。本来の姿を、老婆を操る本来の姿をさらけ出さねば、また繰り返される。それでは駄目だ。それではいづれこの世が……佛の世界までもが崩れてしまう。
本来の姿を誘きだし、邪念を、その邪念を成仏させねば。まだだ。まだ暴れては成らぬ。
生二狼は自分の腹の痣に、操られている老婆に、言い聞かせる。
「鎮まれ! 鎮まるんだ!」
老婆の目が収縮していき、目尻が上がり、怒りの表情へと変わる。
「はっ! 鎮まれだと? 死神の子がぬかしおって! お主には聴こえぬじゃろが! 虐げられている子供の悲痛な魂の叫びが! 聞くもおぞましい、我が子をも大事にせぬ親の醜怪な鼓動がっっ! 死神の子のお主には聴こえぬじゃろがっっっ!」
「死神の子ではない! 僕は死神の子ではないっ! その証拠に、聴こえている。今もこの胸に届いている! 悲痛な泣き声がっ、その泣き声を痛めつけるおぞましい笑い声もがっっ!」
老婆は太い足を一歩前に出した。
「心動かさず人の命を狩る死神が何をほざいておる? 消滅するがよい。この世から消えてなくなれ……死神の子め」
老婆は振り上げた包丁を両手で握り、ズシンズシンズシンと歩を進める。
「うぐぐ、うぐ……貴女にも、聴こえて、いるはず……あの御方の……あの御方の声が、貴女を諭す、あの御方の声が!」
「なっ?」
老婆は再び立ち止まり、目を細め生二狼を凝視する。心の奥底を見透かそうと凝視する。
「貴女に……届いているはずだ……友達を助けたいと願う僕の心の声が! 貴女の息子が女の子を想い泣いたように、今の僕の心も泣いている。友達を想い泣いている……宇梶くんを……宇梶くんを放せっっっ!!」
老婆は表情一つ変えず、ずっと生二狼を凝視していた。何かを見抜こうと凝視し続けていた。ピタリと動きを止めたまま、目の色だけを怒りの色、哀しみの色、憤りの色、憐れみの色、狂いの色、悟りの色、この世非ずの色、仏の色……次々と変えながら生二狼を凝視し続けていた。
「宇梶くんを放せっっっっっ!!!」
生二狼もまた強い意思を持って老婆を見返す。二つと二つの目が濁流の如く交わり絡みもつれ、火柱の如く燃え渦巻き暴れていた。
激しくも静かに二人が睨み合う。
「大切な友達を……宇梶くんを……放せっ!」
睨み合う二人の横で、つむじ風に捕らわれていた宇梶の指が僅かに動いた。生二狼の魂の叫びに反応するように瓶を握る手に力が入っていく。
「僕の大切な友達を、つむじ風から放すんだ!」
宇梶の目が開いた。
この時、この部屋の光景を天井に開いた穴からじっと見ていたもう一つの目も動いた。
屋根裏からずっとこの光景を鼠が見ていた。白く濁った目でじっと覗き見ていた。
その鼠が動いた。白く濁った目を天井に開いた穴から離すと、屋根裏の梁を走り、柱を駆け降り、床下を飛び走り、壁を伝い這い上がると、この部屋の角に開いた穴へと出た。そこで顔を振り、白く濁った目で周りを見渡し、再び畳の上を駆けていった。
「僕には聴こえている。あの御方の声が。貴女を諭すあの御方の声が」
老婆の目が仏の色だけになった。その目で生二狼を見据える。
「尊いのです……友を想う気持ち……子を想う気持ち……親を想う気持ち……それらは……尊いのです……誰かが奪っていいものではない……ないのですっ! 其れを貴女は知っている。誰よりも知っているはず!」
老婆の顔が変わり始めた。怒りの顔に優しさが滲みだしてくる。この世非ずものの顔が仏の顔へと移りゆく。
「貴女は、あの御方から諭されたはずだ。其れを何故忘れる! 鎮めるんです。邪気を鎮めるんです!」
「おぉ……あの御方……あの御方の御言葉……思い出す……思い出すぞぉ……」
老婆の顔が仏の顔となった。
が、すぐにまた崩れていく。この世非ずものの顔へと崩れていってしまう。
怒りの筋が浮かび上がり、この世非ずものの顔となる。
「かっ! 戯言よっ! もはや戯言と変わり果てたわっ! 尊き御言葉ももはや通じぬわっ! この時代、どこにも無いわっ! 友を想う気持ち、子を想う気持ち、親を想う気持ち、そんなもん何処にある! この時代の何処にある! 無くなったわ……そんな気持ちなど誰も彼も捨て去ってしまっておるわっ!」
「……ある。この時代の人々にも、心の奥底にしっかりとある。……其れを諭すのが貴女の役目。あの御方亡き今、代わりに人々を諭すのが貴女の役目のはずだ!」
「ふっ、人々を諭す……その人々は何処におる? 誰も聞かぬわ……耳を貸さぬわ……誰もわしを崇めようとはしよらんわ……」
老婆の顔から怒りが消え、その顔は無表情となった。哀しみの無表情に。虚しさの無表情に。諦念の無表情に。
遠くを見据えた老婆から言葉だけが流れてくる。無表情な能面が涙を流しているかのように、老婆の顔から言葉が流れ落ちる。
「誰も来ぬわ……誰も話しかけては来ぬわ……信心深い者などこの時代には居りはせぬ……とうの昔に皆が捨て去りよった……誰も来ぬ……誰も見もせぬ…………しかしなぁ」
遠くを見据えていた老婆の目がギロリと生二狼を睨む。
「しかしなぁ、わしにもまだ残っておる。残っておったわい。やらねばならぬ事を視る眼がな。その眼がわしに訴えよる。やれ! やれ! とな! 何か分かるか? お主じゃ……お主を殺れとな! わしの眼がそう言いよる! ――死神の子を殺れとなっ!」
包丁を振り上げ、ズタタタタタァァァ――――と老婆が走り寄る。
「信心を無くした者共にも最後の憐れみじゃあぁぁぁ――! 死神の子を葬り去ってやるわぁぁぁぁ――――!」
老婆は生二狼の脳天目掛け包丁を振り落とす。
ガリガリガリ、と音がしていた。部屋の隅でずっと音が鳴り続けていた。生二狼と老婆との争いを尻目に、それは鳴り続けていた。
鼠である。白く濁った方の目だけを開けた鼠が、争いを気にするでもなく慌てるでもなく、ガリガリガリと小筒をかじり続けていた。
「死神の子め――! 消え去れ―!」
人々を刈る死神の子を葬り去ろうと老婆は、舌に巻かれ動けぬ生二狼の脳天へ包丁を振り落とした。
しかし、
ガシン! と包丁が音をたて弾け飛ぶ。
老婆の振り落とした包丁は生二狼に突き刺さらず、老婆の手から弾き飛ばされ部屋の壁に突き刺さった。
「ガァァァァ――!」
老婆の目が、包丁を弾き飛ばしたものを捉える。
「なにぃぃぃぃ!!」
動けぬ生二狼の前には、光り輝く爪があった。
太く、大きく、固く、頑丈に、光り輝く、友を助けんと、強く、眩しく輝く、熊の爪があった。
「グググゥゥ……ヒグマだとぉぉ……」
老婆は噛み締めた奥歯をぎりぎりと鳴らし、ヒグマを睨む。
「ヒグマ! 北の大地へ還らんかぁぁ――! 哀れ堕ち神となったお前を、仏の心を持って還してやろうと言うのに、何故還らぬぅぅ! 還れ!! ヒグマよっっ!!」
ヒグマも老婆を睨み返し、言う。
「オイラは、助手の宇梶っす!」
老婆は狼狽えた。北の大地へと還るはずの宇梶が、その北の大地の守り熊、ヒグマとなって目の前に現れた事に。この世非ずものの老婆にとっては、傷つき敗れた宇梶はそのまま北の大地へと還るはずだった。
それが、還るどころか守り熊の姿となって目の前に現れ、依りによって死神の子である生二狼を守ったのである。老婆には理解出来なかった。
「何故! 何故還らぬ! 北の大地へと何故還らぬのじゃ! 何故死神の子を助けるんじゃぁぁぁ!」
老婆は狼狽えていた。狼狽えてはいたが相手に隙を与えることなく、すぐさま攻撃をくわえる。指の先の鷹の爪をヒグマにむかい突き立てていく。しかしその攻撃をヒグマは全て受け返している。
「還れっ! 還らんかぁぁ!」
「還れないっす」
「何故、何故じゃ! 何故還らぬ!」
「還れないっす……還れるわけないっす!!」
ヒグマの目が老婆を射ぬく。
「大事な友を見捨てて、還れるわけが、あるわけないっすぅぅ――!!!!」
攻撃を受けていたヒグマの爪が反撃に転じ老婆の顔を捉える。
「オイラは助手の宇梶! そのオイラを友と呼んでくれた生二狼の兄貴を見捨てて、還れるわけがぁぁ、ないっすぅぅぅぅ――!!」
ドスン、ゴスン、とヒグマの爪が老婆を殴る。
信じられぬ、といった顔で老婆も鷹の爪を振り回すがその全てが空を切っている。空を切りながらも浴衣を振り、風を起こしてはつむじ風をやり、竹串を飛ばす。が、北の大地の守り熊・ヒグマとなった宇梶には全く通用しない。全てを跳ね返し、老婆を殴り続ける。
「友を、生二狼の兄貴を、守らずにオイラは還れないっす! 友に手を出す奴は許さないっす!」
つむじ風を跳ね返し、竹串を折りやり、宇梶は続ける。
「お前っす! お前が還れっす! お前が還ればいいっすぅぅ!!」
ドスン、ゴスン、ガスンと老婆を殴り続ける。友の為、生二狼の為と殴り続ける。
老婆もつむじ風を起こし抵抗するが効き目がない。
「ぬがぁぁぁぁ――」
ヒグマの宇梶が瓶を手に持ち、蓋を開ける。
「これで還りやがれっす。地獄へも何処へでも、還りやがれっす!」
ヒグマの宇梶は瓶に入ってる粉をぶち撒けた。
それはキラキラと宙に舞う。老婆の見開いた目が粉を捉えキラキラと光り、友を想い怒りに震えるヒグマの宇梶の目にも粉が映り込みキラキラと光る。
撒かれた粉がキラキラと光りながら宙を舞い、老婆へと向かう。
が、しかし、
粉はフワリと向きを変えると、ヒグマの宇梶へと降り注いだ。
浴衣を振り、つむじ風を起こす老婆のその風が、向きを変えさせ全ての粉を追い払っていた。
「おわわわわ~、しくじったっす。粉が全部オイラに掛かったっす~~」
粉を浴びたヒグマは元の宇梶の姿へと戻り、力なくコテンとひっくり返った。
「あわわ、力が、力が入らないっす~」
浴衣から出る風により、宙を舞った粉そのほとんど全てを宇梶が被る羽目になったが、一部は老婆にも降り掛かっていた。
「ぬがぁぁ、こんなもんを振り撒きおって! 堕ち神よ! お前も消え去るがよい! 二人揃って消滅するがよい!」
老婆の顔が怒りから激昂へと変貌する。その姿までもが変貌していく。
この世に非ず老婆の姿が一人の女性へと変わりゆく。若く美しい女性の姿。しかし今は邪念に憑かれ激昂している恐ろしく醜い姿。
その姿は、子を守る仏。
鬼子母神であった。




