山姥:中編(前)
山姥:中編
町は静けさに包まれていた。
何処からともなく発生する薄い雲が、青い夜に浮かぶ三日月を覆い隠しはじめ、道を照らしていた月明かりがおぼろとなる。雲は夜の町を闇へといざなう。
歩く人影はない。人々は既に深い眠りについていた。
屋根裏に潜む鼠が暗闇を見つめ動きをとめる。その鼠の片目は白く濁っていた。見る事が出来なくなったであろうその白く濁った目が、僅かな月明かりに反射して屋根裏にぼんやりと白く浮かぶ。
その目は一点だけを見据えていた。
風がやむ。雲が厚くなり、細い三日月を覆い隠す。月が消え、町が闇にのみ込まれていく。 白く濁った目も闇に紛れ、梟が鳴くのをやめ瞼を閉じた。
地中から静けさが湧き出し、静かに淀み重なり町を埋め尽くさんとしている。
静寂が蠢きだし、町の隅々までを埋めていく。
音がした。静寂の中を明滅しながら音がする。
包丁を研ぐ音のようである。その音だけが町を支配しだす。
その音は静寂に掻き消されながら、または静寂を掻き消しながら、静けさのなか長く単調に乱れなく、漆黒の闇に流れ続ける。
鼠が目を閉じた。しかしそれは片目だけのようであった。
白く濁った目が閉じられたのかは分からない。町は闇に埋められ、それを確かめる術がない。
白く濁った目が開けられたままなのかは分からない。人々は深い眠りについている。
染み付いた多量の血を削ぎ落としているかのように、包丁を研ぐ音が続く。
獣達は息を殺し、木々は色をなくし、冷えた闇に怯えながら朝を待つ。
町の息遣いが消滅し、包丁を研ぐ音だけが時を刻む。
生暖かい風が動いた。
雲間から僅かに月が滲み出で、ぼやけた細い光を届ける。ぼやけた細い光は歪みながら音のする場所を照らす。音のする場所に影が映し出される。影は包丁を研ぐ。ゆっくりと丹念に研ぎ続ける。
「こんなもんでよかろう」
雲が切れ、歪んだ光が太くなり、影の正体を炙り出す。
老婆である。老婆であるが、それはこの世とは思えぬ姿。この世に非ず者の姿。
体は大きく髪は乱れ、皮膚は皺ばみ、裂けた口からは牙が突き出、長く伸びた舌は床に着き、飛び出た丸い目玉がゴロゴロと動き、羽織る浴衣は血に染まり、長い腕の先に鷹の爪を持ち、短い足は象のように太い。
声は低くしわがれ、地獄の底から揺らし伝わってきたかの如くにその場を重く震わす。
「あの者どもを殺めるには此れくらいで良かろう。……しかし何者じゃ? あやつらはいったい……」
その声の主が包丁を掲げると、それに呼応するかのように鋭利に研ぎすまされた包丁が歪んだ月明かりを受け鈍く光った。
「まぁよい。……あの瓶に入った粉は厄介じゃが、二人ともぐっすり眠っておることじゃろ。畏れるに足らんわい」
この世に非ず者の姿をした老婆は、一度その長い舌で舌なめずりをすると、包丁を手に持ち二人の男が眠る部屋へと向かった。
血に染まる浴衣を引き摺り、朽ちかけた板張りの古い廊下をギシギシと軋ませながら歩いていく。
その音を追うように屋根裏で鼠が走る。
柱の間から微かにこぼれ入る月明かりが、片目を閉じたままの鼠の顔を照らしていた。
鼠は白く濁った方の目だけを開けていた。
この世に非ず姿をした老婆は部屋の前で足を止めた。障子の向こうは暗く、物音一つしていない。
「……ヌゥ?」
障子の向こうには二人の男が寝ているはず。しかし寝息が聞こえてこないのに老婆が少し訝しんだ。訝しんだが鈍く光る包丁を強く握り直すと、構わずに障子を開けた。
老婆の目がカッと見開く。
しかしすぐに口角を上げ、ニヤリと笑う。
「ほぅ、起きておったか。あの酒を呑んだというのに起きておるか。……何者か知らぬが、寝てれば良いものを。苦痛を味わう事なく死ねたろうに、残念じゃな」
老婆は目をゴロゴロと動かしながら、薄暗い部屋へと足を踏入れる。
「そちらのゴワゴワから始末してやろうかの」
「オイラを食っても旨くないっす!」
二人の男のうち、小さい方の男が吠えた。
「それにゴワゴワじゃないっす! オイラは助手の宇梶っす!」
目をゴロゴロと動かしたまま長い舌をべろんべろんと動かし老婆が言う。
「ゴワゴワよ、お前も得体が知れぬ……知れぬが、まぁたいした事はなかろう。それよりもそちらの背の高いお兄さんよ、お主、何者じゃ?」
太い足をズリズリと進め、老婆は二人に近づいていく。
背の高い方の男は座禅を組んだ姿勢のまま老婆を見据えている。
老婆は大きな足の裏で畳を擦り切り歩を進め、二人の前に立ち顔を傾げる。
「お主からは善と悪の匂いがしよる。……何者か知らぬが――」
言いつつ、老婆は包丁を振り上げた。
「僕は、外崎生二狼と申します」
老婆は生二狼の脳天めがけ包丁を振り落とす。
身動き一つせず生二狼が言う。
「貴女を、成仏させに来ました」




