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 死神:守り熊

 

 獣達の居場所に雪が降り始め、厳しい自然が冬支度を始める。

 そこではしんと静かに静寂が時を刻む。



 草木が生い茂る山深き場所である。

 そこに、一人の男が倒れていた。

 薄暗い森、他に人は見当たらない。

 仰向けに倒れている男の体は大きい。肩幅があり腕も太い。屈強な感じを受ける。着ている服は辺りの景色に溶け込む地味で暗い服であるが、その下には鍛えぬかれた筋肉が隠れているのだろうと想像がつく。

 開かれた目は空を見ている。その目はホリが深く大きく鋭くて青い。濃い青では無く澄んだブルーだ。精悍な顔つきに無精髭を生やし、胸や腕には黒ではなく金色に近い毛が見てとれる。頑丈な体に強い精神力をも持っていそうな闘気を感じさせる。けれど男は血を流し倒れていた。

 その男が倒れてからだいぶ時が過ぎている。


 近くに猟銃が落ちている。男のものである。しかし男は二度とそれを手にする事は無いのであろう。

 男はまもなく死を迎える。



∝∝∝∝∝∝



 動かぬ男に近づき観察するものがあった。

 ゴワゴワとした固く黒い毛に覆われ、丸く厚い体は岩のようだ。四本の太い足がある。その先の鋭い爪が地面を強く踏みしている。その爪の鋭さは、ただそこにあるだけで十分に辺りを威嚇している。

 目は不釣り合いに丸く小さい。その日がじっと男を捉えている。

 動きはない。しかし、圧倒的な存在感を放ち、他の獣達を怯えさせ萎縮させている。

 この山の頂点に立つ絶対的王者、熊である。

 だがそう大きくはない。まだ子供の熊と見てとれる。それでもやはり猛獣としてのオーラがあり迫力がある。


 じっと覗き込み、匂いを嗅ぎ様子を伺っている。

 男はまだ息をしていた。しかし熊の存在には気づいてはいない。生死をさ迷っている。迫り来る死に抗っていた。まだ死ねぬと耐えていた。死は覚悟している。けれど伝えたい事があった。誰かに頼みたい事があった。

 しかし、ここには誰も居ない。望みを聞いてくれる者など居ない。男の屍を喰らう獣達が喉を鳴らし男の死を待ち続けているだけである。

 男の声を聞くものなどいるはずがなかった。



∝∝∝∝∝∝



 大きな鳥が大木を小枝代わりにとまっている。想像を絶する大きさである。くちばしが大木より大きい。尾は裾まで延びている。目は太陽よりまぶしい。

 アイヌ民族の話に大きな鳥が出てくる。神の鳥だ。その鳥に似ている。


 その鳥が言葉を発す。

「その男に触れるでない」

 その声も大きい。放たれた声は強く響き渡り、山の木々をザワザワと波うち揺らし、一陣の風を麓の村まで掛け走らせていく。

 木の下では子熊がまぶしさに目を瞬かせ、声の振動に毛をビリビリと震わしながら問答している。

「どうしてなのさ?」


「その男は我らの民から抜け、更にこの地で我ら神に反逆しておる」


「でもオイラを助けてくれたよ」


「助けたのではない。撃てなかったのだ。この地に残る民の祈りがそうさせたのだ」


「民の祈り?」


「この地に僅かに残るアイヌの民の祈りだ」


「オイラその人達知ってるよ。オイラの仲間さ!」


「その者達の祈りがお前を生かしている」


「この人にも同じ臭いがしてるよ」


「かっては同じ民であった……しかし今は違う」


「何でさ? 同じ人間じゃないか……それにオイラを助けようとしたんだ」


「その者を助けるとお前は堕ち神となってしまうぞ」


「助けてくれた人を見殺しにして何が神だ! それならオイラ、堕ち神になってやるさ!」



 大きな鳥は何も言わず、その場から飛び去った。バサバサと大きな羽を揺らし、その度に山の木々が揺れ川が渦巻いた。その羽ばたきは大きな鳥が小さく見えなくなるまで強く吹き寄せ続けた。


 子熊は風が止むのを待ち、男を覗き込む。男は遠く彼方を見詰めながら何かを呟いていた。

 子熊はじっとそれを聞いていた。




∝∝∝∝∝


 一人の僧侶が歩いていた。

 胸には赤子を抱いている。しかし、その赤子は全身を黒い法衣で被われ、顔姿は完全に隠され覗き見る事が出来ない。時おり聞こえてくる泣き声だけが、赤子である事を教えてくれる。

「……急がねばならぬ」

 僧侶が空を仰ぎ呟いた。

 空は低く暗く淀み、今にも雷を落としそうな気配を漂わせ、ビリビリと空気を震わせていた。


「……不穏な空じゃ」

 黒い雲は僧侶を追うように低く落ちて来ている。渦巻く雲はまるで鎌を振りかざす死に神のようである。腐臭もする。急がねばと僧侶は歩を早めた。


 「ギャァッッ」と胸の赤子が、しわがれた嫌な声で、一つだけ泣いた。それに呼応するように雷鳴が轟く。赤子の居場所を探しながら吼えているようでもある。




「赤子を連れて西へ行け」

 先日、僧侶は師である慧道禅師からそう言われ赤子を託された。詳しい事は聞かされぬ。聞かされぬが察しはついた。

 死に神の子に違いない

 僧侶は確信していた。でなければ禅師が‘死に神祓い’をするはずがないと。宗の秘事であり禁事である‘死に神祓い’を。


「急がねば……」

 黒い雲はすぐそこまで来ている。僧侶を覆い尽くさんとばかりに空で蠢いている。それを呼び寄せるように赤子も低く唸り出していた。


「……死に神が来よる」

 赤子が親を呼ぶように、死に神の子が死に神を呼び寄せている。急がねば取り返しのつかない事になる、と僧侶は更に歩を早めた。


 僧侶が急ぐ理由はもう一つあった。胸に抱く赤子から、不気味な唸り声とは違う別の声が聞こえてくるのだ。とても澄んで凛々しく威厳さえ感じられる声が、赤子の内から聞こえてくるのだ。

 その声が先ほどからずっと僧侶の心に言葉を投げつけてきていた。


( 急げ 急げ 急げ )と


 赤子の内なる声に導かれ僧侶は山道を急いだ。しかし一抹の不安を覚える。この先には奥深き山々だけが連なっている。

 この道を行けと言うのか? 僧侶は確信を得ない。しかし、すぐ後ろに死に神が迫って来ている、思案している間は無い。内なる声を信じ前へと進む。


 後ろで鳴る雷鳴がすぐ傍で轟いた。地の底からの怒りに満ちた死に神の怒号のようである。僧侶の眉間に皺が寄り汗が吹き出た。足は恐ろしさで震えている。それでも奥歯を噛みしめ前へと進む。赤子を盗られてはならぬ、我が身の命と引き換えにしてでも絶対に赤子を盗られてはならぬ、と前へと急ぐ。

 急げ、急げ、急げ、と内なる声が叫ぶ。草履がちぎれ足から血が噴き出した。それでも僧侶は前へと急いだ。あの山へ、あの山の中へ。助かる術など見当もつかない。それでもあの山の中へ、と歩を進めた。


 空が暗い。まだ夕刻には成らぬというのに辺りも暗い。陽も見えぬ。一面を黒い雲が包んでいる。腐臭がし、地の底からの足音がし、鎌で斬られたみたいに全身から血が滲み滴りだす。目が霞み、鼓膜が暴れ、鼻から脳へ腐臭が襲う。

 黒い雲を割るように横走りに稲妻が走り雷鳴が轟く。死に神を感じ血の気を失うが、そのおかげで黒に塗られた山道を僅かに照らしてくれている。僧侶は前へと急ぐ。

 しかし、稲妻の刹那の明かりに照らされ、行く手を遮るように先ほどから何やら影が見える。止まる訳にはいかぬ。前を凝視し僧侶は急いだ。

 その影がみるみる近付いてくる。尋常でない速さだ。どうやら影の方も僧侶に向かい走って来ている。僧侶は歩を早めながらもその影を凝視する。

 ひときわ空が光った。

 前方の影が一瞬全貌を現す。僧侶は立ち止まりカッと目を見開いた。


「……南無」

 僧侶はただ一言呟き祈る。せめてこの赤子だけは死に神に渡らぬように、と。



 大地を揺らす凄まじい激音と、この世の全てを白に変えるほどの眩しい光が僧侶を襲った。稲妻が僧侶に向かって走り伸びていく。同時に前方の影が飛んだ。



 この世かあの世か分からぬ意識の中、僧侶は清き声と暖かい風を感じた。それは、今となっては夢か現実か判断出来ぬほど切れ切れであった。




 暖かい風はバサバサと鳥の羽ばたきのように吹き寄せては黒い雲を追い払い、稲妻に打たれたように焦げて傷だらけの熊が赤子に向かい話続ける。


 オイラ、約束したんだ

 守るって


 だから人間になるんだ


 そして守るんだ


 約束したから


 オイラ約束したから




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