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学校のトイレ:中編②

 

∝∝還りしもの∝∝


 惣兵衛が新しく赴任した学校は、自身の強い希望もあり昔に自分が子供の頃に通った学校と同じ学校ではあった。しかし、地震により完全に倒壊してしまった当時の木造校舎は全て建て替えられ、今は鉄筋コンクリートに変わっていた。グラウンドも広くきれいになっていて、その他の全ての設備も新しく立派になっている。

 当時、学校があった場所とは違うのか住所も変わっていた。


 周りの建物や景色も大きく変わり、昔の記憶との違いに惣兵衛は戸惑ってしまう。漠然とした記憶では昔の地図と今の地図が上手く結びつかず、幼い頃に遊んだ場所も特定するに至るには記憶が覚束ない。それでもここがタイちゃんとよく隠れんぼをして遊んでいた場所でないかと、惣兵衛は赴任した学校の中庭にある花壇で花をいじっている時、そう強く感じていた。


 四時限目の授業を済ませた惣兵衛は職員室で談笑しながら昼食を終え、いつもの日課になっている校庭の中庭にある花壇の手入れに行く。

 それほど花に興味がある訳でもないが、ここに来ずにはおられない。咲き終わった花を植え替えたり、雑草を抜いたり虫を捕ったりとしながら惣兵衛はそのうちに土を掘り返し始める。花の下に何かが埋まっている気がして無意識に土を掘ってしまうのだ。

 花壇の脇には小さな岩があった。タイちゃんがよく隠れていた岩に似ている。はっきりと形を覚えている訳では無いが、同じ岩に思えて仕方がない。その岩を見ていると隠れんぼの事が甦り、タイちゃんが手で口をおさえてクスクスと笑うあの時の声が岩の陰から土の中から聴こえてくる気がする。その声を求め惣兵衛は土を掘り返す。

 この中に……この中に、タイちゃんが隠れている。身を屈め、見付けられるのを待っている。と惣兵衛は感じてしまう。


 今日もまた花壇の土を掘り返し、いるはずもないタイちゃんの姿を求めて、夢中で深くスコップを突き刺し掘っていく。するとクスクスと笑う声が聴こえてくる。何処からともなく聴こえてくる。隠れんぼなのに見つけられる事を楽しみにしているタイちゃんの笑い声が、手で口をおさえているけれども我慢しきれずに漏れ聴こえてくるクスクスというタイちゃんの笑い声が、惣兵衛の耳に届いてくる。


 クスクス クスクス

       ここだよ


 惣兵衛はタイちゃんの姿を、背中を、見つけられた時の嬉しそうな笑顔を求め、花壇の土をスコップで深く掘り返す。


 クスクス クスクス

       ここだよ


 あの日のようにタイちゃんの名を呼べば、『ここだよ』と返事が聴こえてきそうで、惣兵衛はとり憑かれたように花壇の土を深くもっと深くと掘り返していく。


 クスクス  クスクス


   クスクス  クスクス



   ここだよ





 この日の授業を終え、教壇で資料の整理をしていると女子生徒数人が惣兵衛の元へ寄ってきて声を掛けてきた。


「先生~、先生って……あの~、その~」

 先頭の一人がそこまで言うと、後ろを振り返り数人と顔を見合せてクスクスと笑いだす。


「早く聞いてよ~」

「そうだよ、聞いちゃいな、聞いちゃいな」

「え~、でも~」

「あんたまさか、あんな噂信じてんの?」

「まさかぁ~!」

「でもさ、いきなり失礼じゃない?」


 惣兵衛に背中を向けて数人の女子生徒はてんで好き勝手に喋り合ってはクスクスと笑っている。呼び掛けられたものの一人蚊帳の外の惣兵衛は、話はまとまるのだろうかと案じながら資料をまとめ教室を出て行く準備をしていた。その間も女子生徒達の笑い声が聞こえる。


 クスクス クスクス

  クスクス クスクス

 資料をまとめ終わり「さぁっ、先生はもう行くぞ」と声を掛けると、数人の中で一番物怖じしなさそうな子が慌てて声を出した。


「先生! 先生もやっぱり信じてるんですか?」

 声を出したその子の後ろでは他の生徒が惣兵衛を見てクスクスと笑っている。


「信じる? 何をだ?」

     クスクス

「七不思議です!」

     クスクス

「七不思議?」

     クスクス

「はい! この学校の七不思議です」

     クスクス

     クスクス

「お~、七不思議か? この学校にもやっぱり七不思議てあるんだな」

   クスクス クスクス

   クスクス クスクス

「ありますよ、って先生この学校の七不思議知らないんですか?」


 クスクス  クスクス

「この学校のは聞いてないなぁ、まぁどこも一緒だろ? 音楽室のベートーベンとかトイレの花子さんとか」


 クスクスクスクスクスクス

「はい、ほとんど同じなんですけど少しだけ違うんです。トイレの花子さんはうちの学校ではトイレのたいちゃんて言うんです」


 クスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクス


「トイレの、タ、タイちゃん?」


 クス クス クス クス


「はい、うちの学校は花子さんて女の子じゃなくてたいちゃんていう男の子なんです。開かずのトイレの扉をノックすると誰も居ないはずなのに中から『また、だよ』て返事するんですって!」


 クスクスクスクスクス


 女子生徒の話を聞きながら惣兵衛の顔はみるみる青ざめていった。

 ノックすると『また、だよ』と返事する、と女子生徒は言う。しかし惣兵衛には違う言葉に聞こえていた。あの時の記憶が甦り惣兵衛の膝はガタガタと震える。


「笑いながら『また、だよ』て言うらしいんですけど何が『また』なのかよく分からないんです。『またノックされた』て意味なのかな? ってみんな言ってますけど……」

 違う、違う、違う。惣兵衛には分かっていた。『また、だよ』の意味が。タイちゃんであるなら言うであろう言葉が。


 クスクスクスクスクス


「それと、もうひとつ花壇のたいちゃんてのもあるんですよ。花壇の花に水をやってると隣の岩からクスクスと笑い声が聞こえて来るんです」


 クスクスクス クスクスクス クスクスクス


「か、花壇で……笑い声?」


 クスクス クスクス


「はい……。先生……いつも花壇で土を掘り返していますよね……? すごく恐い顔をして……」


 クスクス クスクス


「えっ? 恐い顔を……先生がか?」

「はい、とても恐い顔をして……何かを探しているような感じで……」


「そ、そうか……?」


 それまで後ろでクスクスと笑っていただけの女子生徒達までもが身を乗り出して惣兵衛に問い詰めてきた。


「先生、聞こえてるんですか?」

「な、何をだ?」

「笑い声です」

「ま、まさか」

 惣兵衛の回りを女子生徒達が囲む。

「聞こえてるんですか?」

「たいちゃんの声を聞いたんですか?」

「たいちゃんを見たんですか?」

「たいちゃんを知ってるんですか?」

 惣兵衛は目を見開き、口をわななかせているだけで返事が出来なかった。

 クスクスと笑い声が聞こえる。タイちゃんの……笑い声が……。クスクス……クスクス……と。


 大きな岩を思いだし、農具を入れてる小屋を思いだし、畑や田んぼが続く道を思いだし、そして道の脇にあったあの肥溜めを思いだした。

 耐え難い糞尿の匂いが鼻を襲った。足元を蛆虫が蠢き、ズブズブと埋まっていく足に絡み付く様に糞尿が目の前にまで迫って来る。

 そこから、タイちゃんの手が伸びて来た。


 女子生徒達の顔が歪み、教室も歪んだ。


 何故……恐い顔で……スコップを突き刺し……耳をすまし……辺りを探り……何かを突き落とすように……土を叩いているんですか?……何を突き落としているんですか?

 先生……知ってるんですか?……たいちゃんを知ってるんですか?……何故たいちゃんは隠れてるんですか?……何故たいちゃんは見つけられないんですか?……先生、何故、土を掘るんですか? 知ってるんですか? 知ってるんですか?


 タイちゃんを知ってるんですか? 何故タイちゃんを助けてあげなかったんですか? ねえ何故ですか? 先生? 先生? 先生?先生?先生?先生?


 何故、タイちゃんを見殺しにしたんですか?


 先生はタイちゃんを殺したんですか?


 タイちゃんは肥溜めに落ちたんですか?


 クスクス クスクス

 ここだよ


 ここだよ






「千田先生、千田先生!」

 声を掛けられて惣兵衛が顔を向けると、同じ学年の別のクラスを受け持つ森脇先生が惣兵衛の顔を覗き込んできていた。


「あっ、森脇先生」

「……千田先生大丈夫ですか? ぼおっとして顔色も悪いですよ」

「あっ、はい、いえ、あの……あれ? 生徒達はどこに?」

「生徒達……?」

「うちのクラスの生徒達……」


 回りを見るとここは職員室らしい。生徒はもちろん、他の先生も見当たらず、窓の外が暗い。


「下校時間はとっくに過ぎていますよ。生徒達は帰りました。他の先生方も帰られ、もう僕と千田先生しか残っていませんよ」


 生徒達からこの学校の七不思議を聞き、その話にタイちゃんが出てくるのを知ってから記憶が途切れている。その後の事は覚えてない。女子生徒達がタイちゃんを見殺しにしたと自分を責め、襲ってきた感覚だけが残っている。


「千田先生……本当に大丈夫ですか? だいぶお疲れのようですよ。早く帰った方がいいんじゃないですか? 僕も用事が終わりましたので、お先に失礼させてもらいます」


 森脇先生が惣兵衛の肩を叩いてから、カバンを抱え職員室のドアへと歩いて行った。惣兵衛は適当に返事を返し、窓の外を見た。ここからでは花壇は見えない。

 職員室のドアが開く音がして、振り返ると森脇先生が出て行くとこだった。


「あっ、森脇先生!」

 惣兵衛は駆け寄り、森脇先生に尋ねてみた。


「森脇先生は開かずのトイレの扉をご存知ですか?」

「開かずのトイレの扉…………ああ、七不思議ですね。千田先生まさか信じてるんですか? ハハハ」

「ご存知なんですか? どこにあるんですか?」


 森脇先生はじっと惣兵衛を見つめてから笑顔で答えた。

「あはは、千田先生、本当に大丈夫ですか? 早く帰った方がいいですよ」

「あ、あるんですか! ノックをすれば返事をするんですか!」

「やだなぁ~千田先生、無いですよ。無い無い。あはは。開かずのトイレの扉なんて、この学校のどこにも無いですよ。全てちゃんと使えます。生徒達が面白がって言ってるだけですよ千田先生。さっ、早く帰りましょう」

「そ……そうですか……」



 森脇先生が帰って行った後、惣兵衛も帰り支度を済ませ「ただの噂だ……そんな事がある訳がない」と呟き、職員室を出た。

 ただの噂だ……そんな事がある訳がない……思い過ごしだ…………しかし、もし本当にここにタイちゃんがいるのなら……ここでずっと隠れているのなら……見つけられるのを待っているのなら……


 花壇の色とりどりの花達が、夕闇に紛れてどれも黒く咲いていた。風も無いのにユラユラと揺れている。まるでこの花達の下で、土の奥深くで誰かが揺らしているように。

 そのまま帰るつもりだったのに、気がつけば花壇の前に立っていた。ただの噂だと思っているのに、それでもタイちゃんがここに居るんじゃないかと思えてしまう。

 自分はタイちゃんを見つけてあげなければならない。必ず探しだしてあげなければならない。あの日とった行動がずっと惣兵衛を悩まし続けていた。

 肥溜めを覗く恐怖は今も消えない。数万匹の蛆虫が体中を這い廻っている感覚で夜中に目が覚める事もあった。二度と肥溜めには近づきたくはない。

 それでも、タイちゃんがそこに隠れたままならば、ずっとそこで見つけられるのを待っているのならば、自分が見つけてあげなければいけない。

 それがあの日自分がとった行動のせめてもの償いだ。



 花壇の前で揺れる花々を見詰めタイちゃんを想った。あの日の事を想った。楽しそうに隠れ場所を探すタイちゃんの姿が目に浮かんだ。


 すると突然 クスクス クスクスと、タイちゃんの笑う声が聞こえてきた。

 どこからともなく、しかしはっきりとクスクスという笑い声が聞こえた。隠れながら手で口を押さえ笑っている、あの笑い声が。

 岩から、花々から、校舎から、土の中から。


「タイちゃん……タイちゃん、いるのか?」


 クスクス クスクス


「どこだ? どこだ?」

 惣兵衛は花壇の花々を踏み荒らし、タイちゃんを探した。

「タイちゃん、タイちゃんどこだ!」


 クスクス クスクス


 花びらから、土の中から、笑い声が聞こえる。

「どこだ! どこだ!」

 クスクス クスクス


 手入れした花達を踏み潰しタイちゃんを探す。土を掘り返し、レンガを崩し投げタイちゃんを探す。


 クスクス クスクス


「どこだ! どこだぁ――!」


 クスクス クスクス


「タイちゃん……どこだ……頼む、頼む、タイちゃん出て来てくれ……」


 クスクス クスクス


 クスクス クスクス


 隠れんぼの時のように身を隠し、自分を探す惣兵衛を見て笑っている。早く見つけてと笑っている。


「タイちゃん……タイちゃん……」


「タイちゃん……どこだ……タイちゃんどこだ……」


 クスクス クスクス




   ここだよ




「はっ タイちゃん……」


 ここだよ


 振り返り声のする場所を探した。あちこちから聞こえる笑い声が次第に一つに重なっていく。

 どこだ! どこだ! どこだ! どこだ!

 大きな岩があった。そこからタイちゃんの声がする。


      ここだよ


 隠れんぼを終わらせてあげなければ……自分が見つけてあげなければ……。


 惣兵衛は岩を調べた。何度も岩の周りを調べ、タイちゃんを探した。しかしタイちゃんは見つからない。


 どこだ、タイちゃん、どこだ


 クスクス クスクス


   ここだよ


 どこだ! どこだ!


 クスクス クスクス


        ここだよ


 声を求め、タイちゃんを探し、惣兵衛はフラフラと歩き出す。声に導かれ、姿を見せぬタイちゃんを追いフラフラとさ迷い歩いた。


ここだよ


 中庭を横切り、校舎に入り、廊下を歩いた。


       ここだよ


 階段を上り、階段を下り、教室に入り、教室を出、廊下を歩き、真っ直ぐ廊下を進み、校舎の端まで来て、そこでハッキリと聞こえ出した。


   ここだよ


      ここだよ



 ここだよ   ここだよ



 惣兵衛はゆっくりとトイレ入口のドアを開けた。



 ドアを開けると、さっきまで聞こえていた声がやんだ。それまで聞こえていたクスクスという笑い声がしない。皆が帰った夜の校舎で誰にも見つからないように、息をひそめ体を隠し気配を消すように『ここだよ』という声がやんだ。

 まるで隠れんぼの鬼から逃げるように、息をひそめるように笑い声が消えた。


 惣兵衛は壁をまさぐり電気のスイッチを探した。闇の海が広がっているみたいに中が暗い。自分の体まで飲み込まれそうだ。ずっと壁をまさぐるがタイルの冷たさが指に伝わるだけでスイッチが見つからない。おかしい、この辺にあるはず。更に壁を探す。誰かが濡れた手で触ったのか、ときおりヌルリとした感触が手を襲う。その度にドキリとするが、スイッチは見つからない。おかしい、おかしい、おかしい。

 まさぐる範囲を広げ探してみた。こんなとこには無いだろうと思うとこも探した。ない、ない、ない。壁までが闇になったみたいに感じる。どこだ、どこだ、どこだ。


 指先が何かに触れた。はっとして手を戻すと、暗闇で見えないが確かにスイッチのようだった。想像以上に下にある。手に触れたものに指先の感覚だけで確かめていく。間違いない、スイッチだ。

 小さな子供にも手が届くよう、低めに設置してあったのを思い出した。

 惣兵衛はトイレのスイッチをいれた。


 トイレの中がパッと明るくなり、いつもの見慣れたトイレが現れた。

 低く作られている男の小便用の便器が四つ並んでいる。一番端だけが弱冠高い。惣兵衛はいつもそこで用を足す。

 奥に個室が三つある。三つある個室のうち、手前の二つは扉が開いていた。水洗トイレは綺麗に掃除され紙も補充されている。惣兵衛も生徒達と一緒になって定期的に掃除をしている。確か昨日も掃除をした。一番奥の個室の紙が少なかったので新しいのと取り換えた。水洗トイレの流れる水量も少ないようだったので調節して水量を増やした。皆が気持ちよく使えるように全ての便器を綺麗にした。誰もがどの便器を使っても気持ちよく使えるはずだ。

 子供達は学校のトイレで便をするのが恥ずかしいのだろうか、少しでも人目につかないよう一番奥の個室を使いたがる。ここもそうだ。一番奥の個室が頻繁に使われていた。だから念入りに綺麗にした。いつでも使えるようにと……。

 その一番奥の個室だけが全てを閉ざすように扉が閉まっている。

 この時間、誰もいるはずがない。さっきまで電気も消えていたのだ。誰かが入っているなんて考えられない。何かの拍子に扉が閉まったのだろうか、それとも今日の夕方にでも故障して使用禁止にされたのだろうか……。


 惣兵衛は扉に近づき、声を掛けた。

「誰か……いますか……」

 返事は無い。誰かが居る気配も無く、物音一つしない。

 誰も居るわけが無かった。こんな時間に電気も点けず真っ暗な中、用を足すわけが無い。惣兵衛は手を伸ばし、扉を開けた。


 しかし、カチャカチャと音がするだけで扉は開かなかった。ドアノブを握り直し、もう一度回してみる。やはり、カチャカチャと音がしてドアノブが途中で止まり、扉は開かなかった。

 ドアノブの上に青いマークが見える。空きのサイン。中には誰も入っておらず、鍵も掛かっていないという印。扉は開くはずだった。


 何度ドアノブを回してもカチャカチャと音がするだけで扉は開かない。故障しているなら使用禁止の紙が貼られているはずなのに、この扉には何も貼られていない。

 開くはずなのに、この扉は開かないまま固く閉じている。


 開かずの扉のように。


 何度も回した。向きを変え、力加減を変え試してみた。ドアノブを握ったまま扉を揺らしてみたりもした。それでも扉は固く閉ざされていた。


 トイレの電球がチカチカと瞬いた。規則正しい瞬きは、やがて不規則になり消えている時間の方が長くなった。そして全ての電球が消えた。

 トイレが暗闇に包まれた。日の当たらない肥溜めの中が更に蓋をされ真っ暗になるように、トイレは闇に覆い隠された。



 クスクス クスクス


 クスクス クスクス



 暗闇の中、目の前の扉だけがぼんやりと光っている。僅かな光を浴びて白く蠢く蛆虫のように、ぼんやりと光っている。


 クスクス クスクス


 その中から、タイちゃんの笑い声が聞こえてくる。タイちゃんが背中を丸め、口を手で押さえている。

     クスクス


「タイちゃん! タイちゃん、いるのか!!」


  クスクス


「タイちゃん! タイちゃんっっ!!」


       クスクス


 ノブを強く回し、扉を激しく揺らした。それでも扉は固く閉ざされたまま開かなかった。


 タイちゃん!! タイちゃん!! タイちゃんっっっっ!!!


 クスクス クスクス


 扉は開かない。中からクスクスと笑い声だけが聞こえてくる。


 タイちゃん! 開けてくれ! タイちゃん! タイちゃん! 開けてくれ!!!!


 惣兵衛は力一杯に扉を叩き、開けてくれと叫んだ。

 ドンドンドンドン、ドンッ!

 タイちゃん! 開けてくれ! タイちゃん!

 ドンドンドン、ドンッ! ドンッ! ドンッ!


   また…………


 ドンッ!ドンッ!ドンッ!ドンッ! タイちゃん! タイちゃん!


 ………だよ………


 タイちゃん! ドンドンドンドンッ!


 ……また……だよ……


 ドンドンドンドンドンドンドンドン!!!


 ……また、だよ……


 タイちゃ――ん! タイちゃ――んっ!!


 ……まだ……だよ……


「はっ! 聞こえる、聞こえる……タイちゃんの返事が……」



 ――開かずのトイレの扉をノックすると誰も居ないはずなのに中から『また、だよ』て声が聞こえるんです――


 惣兵衛は息をとめ耳を澄まし、開かない扉を軽くノックしてみた。暗闇のトイレに『コンッ、コンッ、コンッ』と扉を叩く小さな音が響き、少し間をあけてから確かに声が聞こえた。


 ……また……だよ……


 違う  違う

 もう一度、今度は扉に耳をつけノックした。『コンッ、コンッ、コンッ』と振動が耳に伝わる。

 また、少し間をあけてから声が聞こえた。


 ……ま……だよ……



 扉に耳を強く押しつけ、聞こえてくる声だけに神経を集中させ、もう一度惣兵衛はノックした。


 コンッ、コンッ、コンッ



 ……ま……だ……だよ……


 そうだ、そうだ、そうだ! 間違いない! タイちゃんだ! タイちゃんがいい隠れ場所を見つけようと探し回っているんだ!


 惣兵衛は一歩、二歩とさがってから、目を閉じ更に腕で目を塞ぎ、隠れんぼの時のように扉に向かい声を出した。


 ……タイちゃん……

 ……もういいかい?


 ……まだ、だよ……


 も~う いいか~い?


 まだ~ まだだよ~


 隠れ場所を探し、走り回る音がする。岩に隠れ、小屋の裏に隠れ、板の後ろに隠れ、草に隠れ、それでもいい場所が見つからずまた走り出す。


 まだ~ まだだよ~


 やがて足音は遠ざかり、肥溜めに向かう。

 タイちゃんは蓋を開け、中を覗く。隠れる場所があったとクスクス笑う。

 目を閉じていても惣兵衛には見えた。ハッキリと見えていた。タイちゃんが肥溜めの中に身を隠すのが。


 もう~いいかい?


 タイちゃんは中に身を隠し、肥溜めの蓋を閉じる前に言った。


 もう~いいよ~!


 そして、蓋を閉めた。



 惣兵衛が目を開けると、ドアノブがカチャリと回り、開かなかった扉がギギギィと音をたて、ゆっくりと開いていった。

 中には綺麗に掃除した水洗便器があるはずだった。しかし中は手垢に汚れた古いボットン便器になっていた。白いはずの便器が黄色く変色し、タイル張りだった床や壁が木製に変わり所々朽ちて苔が広がっている。

 新しく替えた紙は無く、ざら半紙が積み重ねられていた。ボットン便器を塞ぐ板が立て掛けられていて、その板に一匹の蛆虫が這っていた。


 あるはずの無い、裸電球が薄暗く便器を照らす。ゆらりゆらりと灯りが動き、変色した便器のひび割れた黒い線もゆらりゆらりと動く。

 便器の真ん中には漆黒の闇が深く続いている。その奥深くで茶色い糞尿が波のようにうねり、時折砕けては泡のように蛆虫達が蠢く。クネクネと無限の時間を踊り狂っている。


 糞尿よりも、蛆虫達よりも、もっと深く、果てしなく深い場所から、惣兵衛を呼ぶ声がした。



 クスクス クスクス


   ここだよ、ここだよ



 ここに隠れているよとタイちゃんが惣兵衛を呼ぶ。


 クスクス クスクス

   ここだよ、ここだよ


 糞尿が小さな頭の形となって盛り上がってきた。クスクスと笑い、便器の中の漆黒の闇から外の様子を伺うように小さな頭が盛り上がってきた。

 茶色い糞尿がダラダラと垂れ、蛆虫達が踊り狂いながら落ちていく。その中からタイちゃんの顔が現れる。早く見つけてと惣兵衛を探している。クスクスと笑いながら惣兵衛を探す。


 惣兵衛はタイちゃんを見ていた。おぞましい臭いに耐え、肥溜めの恐怖を我慢し、踊り狂う蛆虫達から逃げ出したくなるのを抑え、流れ落ちていく糞尿の中から現れるタイちゃんの顔を見ていた。

 今はタイちゃんに逢えた喜びの方が、タイちゃんを見つけてあげられた嬉しさの方が大きい。惣兵衛は心から安堵した。そしてタイちゃんに詫びた。


「タイちゃん……ごめんな……悪かったな……寂しかったろ……辛かったろ……」


 糞尿まみれのタイちゃんはじっと惣兵衛を見ている。その目から蛆虫達がポロポロと踊り狂いながら落ちていく。


「ごめんな……ごめんな……」


 こんな暗闇の中、ずっと一人で寂しかったろうに……辛かったろうに……これからはずっと一緒だ……ずっと一緒にいてあげるよ……

 惣兵衛は誓った。二度とタイちゃんを一人にしないと。


「タイちゃん、見つけた……見つけたぞ!!」


 じっと惣兵衛を見ていたタイちゃんが笑った。

「あぁ~~見つかったぁ~~」


 昔一緒に隠れんぼを楽しんでいたあの頃と同じに、タイちゃんは見つかった事が楽しいとばかりに喜びながら笑い、便器から飛び出してきた。そして惣兵衛に飛び付き、満面の笑顔で言った。


「もう一回! もう一回!」






∝∝∝∝∝∝


 一限目の予鈴を聞いて惣兵衛は教科書を手に職員室を出た。その顔は晴れ晴れとしていて、鼻歌でも歌っているのか、ときおり口を動かしている。見上げるように顔を横に向けては笑顔さえ浮かべていた。

 実際、惣兵衛は幸せだった。楽しかった。子供時代に戻った気分で無邪気に笑えていた。


 クスクスと笑いながら職員室を出て行く惣兵衛を他の先生達は訝しそうに見ていた。





 惣兵衛が教室の扉を開けても教室内は授業前のおしゃべりでざわついていた。いつもの事で惣兵衛は気にもしない。


「起立!」


 一人の生徒が声を発す。いつもならここでざわめきが止まり静かになる。しかし、今日はざわめきが大きくなった。

 『起立』の後に『礼』と言わなければならないその生徒は惣兵衛の姿を見て固まったまま言葉を発しない。他の生徒も惣兵衛を見てざわついている。


「授業が始まるぞ~」


 扉を閉め、教壇に向かっていると生徒の中の誰かが言った。


「せ、先生……どうしたんですか?」


「何がだ?」


 答えながら惣兵衛は生徒達を見上げた。

 生徒達は惣兵衛を見下ろしている。

 いつもは生徒よりも高い位置にある惣兵衛の顔は今日はずいぶんと下にあった。

 惣兵衛は杖をついていた。腰を折り曲げ杖をついていた。

 姿勢の良かった惣兵衛の体が今は大きく曲がっている。まるで重い荷物を背負っているかのように、腰のところで九十度に折れ、杖をつかなければ前へ倒れてしまいそうなほどに顔が下にある。


 生徒達は異様な気配を感じていた。

 腰の曲がった惣兵衛の今の姿も背中に何か担いでいれば納得出来た。しかし背中には何も乗っていない。何も担いでいない。それでも重みを感じているかのように惣兵衛の腰は曲っている。

 辛そうな顔をしていれば腰でも悪いのかと心配した。しかし惣兵衛は笑っていた。楽しげに笑みを携えていた。腰を折り、杖をつき、背中を反らせ、笑っている。

 そしてなにより、時々背中を見るように振り向いては『見つけたぞ』と独り言を呟き、惣兵衛は笑っていた。




 それ以来、惣兵衛はずっと背中に重みを感じ暮らしていった。糞尿の臭いが鼻につき、首筋に蛆虫が這っているよな感触があった。それでも惣兵衛は笑っていた。ずっと笑って生きていった。


 時々、背中で声がする。惣兵衛は笑って返事をする。ずっと……ずっと……。



 クスクス クスクス

      ここだよ


 見つけたぞ タイちゃん


 あぁ、見つかった~




 もう一回  もう一回




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