学校のトイレ:前編
古びたビルの四階にあるドアに掛かる小さな看板【非世の中処】
そこには世二非ズモノの依頼が舞い込んでくる。その依頼を受けるのは外崎生二狼と助手の宇梶。
二人は今、賑やかな都市のスクランブル交差点で信号が変わるのを待っていた。
そこでは見知らぬ他人が見知らぬ他人を追い越しまた追い越され、轟轟と行き交う人の波に飲まれながら、ただ前だけを、ただ足下だけを見て渡り行く。すれ違う顔は定かでは無く、スクランブル交差点を渡る人が何処の誰で何をしている人なのかは知る由もない。そんな交差点で二人は信号が青になるのを待っていた。
「兄貴やっと青になったっす! 早く渡るっす! それにしても人、人、人、ばかりっす!」
「そうですね。あっ、宇梶君、前から人が来てますから気をつけて下さい」
助手の宇梶は人の波から可愛い娘を探そうとキョロキョロしている。
「これだけ多いと可愛い娘も多いっす……おわっ」
助手の宇梶はよそ見をしていて、前から歩いて来る人とぶつかりそうになり慌てて避けようとした。しかし間に合わずぶつかってしまった……と宇梶は思ったが、前から歩いて来たサラリーマン風の男は宇梶とぶつかる事無く、宇梶の体をすり抜けていった。
「おわっ……と、あれ? ぶつから無かったっす……ん? おかしいっす! 今のおかしいっす! ぶつから無かったっす!」
「こういう、人の多い場所は色んな人がいます。世に非ず人がいても誰も気づかないでしょう……」
「あわわ……今のそうすっか? ねえ、そうなんっすかぁ!」
「さぁ、どうでしょう? 宇梶君みたいに邪念の多い人には近寄って来るかも知れませんね」
宇梶は慌てて服を払い、見えない相手を必死で追い払おうとする。生二狼は構わず歩いていたが、横をすれ違う一人の老人に目を向け立ち止まった。そこへ服を払いながら来た宇梶がぶつかる。
「おわっ……今度はぶつかったっす……って生二狼の兄貴じゃないっすか!」
生二狼は立ち止まり、ずっと老人を目で追っている。その視線の先を宇梶が追う。
「えらく腰の曲がった爺さんっすね。百十五度は曲がってるっす」
「そうですね。重い荷物をお持ちのようです。宇梶くん、手伝ってあげましょう」
生二狼は向きを変え、老人の後を追って歩き始めた。生二狼の追う老人は腰を曲げ、杖をつき歩いている。顔には長年刻まれた苦悶のシワがいくつも走り、息も絶え絶えに交差点を渡っている。しかし老人は荷物を持っていない。生二狼の言う、重い荷物などはどこにも見当たらない。
「生二狼の兄貴、何言ってるっすか? 爺さん手ぶらっすよ? 何にも持ってないっすよ!」
∝∝遠くに消えたもの∝∝
千田惣兵衛は久しぶりに生まれ育った故郷の地を踏んだ。
遠くに近くに連なる山々。都会よりもはるかに濃い緑。目にもまぶしい色とりどりの花、花、花。純粋な人々、無垢な子供達。
懐かしさに惣兵衛は微笑む。
惣兵衛は幼き日にこの地を離れ、以来訪れていない。それでもやはりこの地は惣兵衛にとっては故郷、帰るべき土地なのだ。
残念な事に惣兵衛がこの村を離れたその夜、この一帯を大地震が襲った。住んでいた家も通った学舎も全てが一瞬で消え、今は跡形も無い。その後の復興が昔に無かった建物を建ち並べさせ、村を町と変え、惣兵衛の記憶とは大きく様変わりさせてはいた。それでも久しぶりに帰って来た故郷は都会の空気で汚れた惣兵衛の気持ちを癒すには充分すぎるほどの景色を、匂いを、BGMを届けてくれていた。
「では十八ページを開いて下さい」
教壇で惣兵衛が言うと、生徒達がペラペラペラ、パラパラパラと教科書を開く。続いてカタカタ、コト、と筆箱を開き、鉛筆や消しゴムを取り出す音がする。
惣兵衛は都会の大学を出て教師になった。
念願だった職業につき、苦労しながらも充実した毎日を送っていた。
長く都会の学校で教鞭をふるっていたが、四十も半ばになったこの年に、ようやく生まれたこの地への赴任が決まった。
これは惣兵衛が希望したものである。ここでどうしても叶えたい事があった。
惣兵衛はこの地に、取り返しのつかない置き忘れをしていたのである。
この地に来てすぐに惣兵衛は町外れの墓地へ足を運んだ。墓地の階段を少し登った片隅に木村家の墓がある。惣兵衛はそこに花を添え、長く手を合わす。
墓石には夫婦の名が刻まれている。惣兵衛が幼い頃によくお世話になった近所のご夫婦の名である。その横に小さく後から付け足されたように《子・大志》と彫られた字も読める。
大志という子はこの夫婦の子供であった。しかし夫婦のお骨が眠るこの墓に大志の骨は無い。
あの夜、この村を襲った大地震で大志の両親は家屋の下敷きとなり命を落とした。翌日、両親の遺体は瓦礫の下から掘り起こされたが、息子であるまだ幼い大志の遺体がいくら探しても出て来なかった。この地震により亡くなった人の遺体は全て回収されたのだが、大志だけがいつまでたっても見つからなかった。その後の本格的な捜索でも大志は見つからず、遺体も出ては来なかった。大志だけが行方不明のまま捜索は打ち切られ、村は復興へと進んだ。
惣兵衛は大志と彫られた字をゆっくりと指でなぞり、(必ず見つけだしてあげるからな)と胸に誓い、もう一度手を合わせてからその場を後にした。
惣兵衛がまだ子供の頃、近所に住む大志とよく一緒に遊び、いつも行動を共にした。三つ下の大志を「タイちゃん」と呼び、大志も惣兵衛を「惣ちゃん」と呼び、とてもなついていた。
タイちゃんは体が小さくて少し知恵遅れなところが有った。そんなタイちゃんを惣兵衛はよく面倒をみて弟のように可愛がっていた。本当の兄弟のように仲が良かった。
しかしタイちゃんは、よく惣兵衛を怒らせてもいた。勉強を教えていてもすぐに別の事をして遊びだしたり、突然走り出し居なくなったりした。子守り役の惣兵衛はその度に探し回らなければならない。
タイちゃんは隠れんぼが好きで「かくれんぼしよ~」とよくせがむ。いつも惣兵衛が鬼役だった。なのに鬼役の惣兵衛が目を閉じ数を数えている間にタイちゃんは勝手に家に帰ってしまう事がしばしばあった。帰った事を知らない惣兵衛は急にいなくなったタイちゃんを懸命に探し、それでも見つからず急いでタイちゃんの両親に報せに走る。万が一の事でもあれば大変だ。
この時代の田舎には危険がいっぱいあった。周りは山ばかりで、道を少しそれるだけで藪が広がり、崖もあり沼もある。川も危険で野犬もいた。タイちゃんは知恵遅れで突拍子もない行動をする事があるのでちゃんと監視しとかなければいけない。
特に言われていたのは肥溜めだ。
下水のないこの時代、便所は汲み取り式で便器の下に糞尿が溜まっている。その糞尿を肥やしとして畑に撒く。その際すぐに撒くのではなく、汲み取った糞尿をいったん肥溜めに移して数ヶ月は置いておく。
深さは意外とあり、小さな子供なら埋まってしまう。間違って落ちないように蓋はしてあるが、誰かが落ちたという話はよくある。
惣兵衛は辺りを探しタイちゃんの姿が見当たらない時は念のため肥溜めを覗く。蓋は閉まっているが、もしもそこに隠れていたら……隠れる場所を探しているうちに間違って落ちてしまっていたら……。不安にかられ探さずにはいられない。
しかし惣兵衛は肥溜めを覗くのは嫌なのである。なんとも言えない恐怖がある。近づくだけでも臭いが体にまとわりつき、自分の体を締め上げてきてるように思える。それだけでも耐えれないのに、更に蓋を取った時のもっと強烈な臭いはいくら手で塞いでも容赦なく鼻から入り込み、肺に内臓に血液にまで襲い掛かってくる。一度吸い込んだ糞尿の臭いは、その後何日も自分の体のいたるところから発せられ、寝ている時にさえ鼻につき、まるで肥溜めの中でもがいているような感覚にされる。
臭いを我慢しながら肥溜めを覗く時も、薄暗い箱の中に溜められている糞尿はどこまでも深く、底が無いように思え、間違って落ちてしまえば足の着かない糞尿の中に果てもなく引き摺り込まれていき二度と出ては来られない、そんな底無しの恐怖を感じるのだ。
背の低いタイちゃんが落ちてしまえば確実に沈み込んでしまう。本当に落ちていたら見付けられないんじゃないか? そう思うも探さずにはいられない。目を凝らし中を確かめる。すると溜まった糞尿が動き出すのだ。モゾモゾとグネグネと糞尿が動き出すのだ。
それは、茶黒く澱んだ糞尿の間を白く小さな蛆虫達がモゾモゾとグネグネと蠢いている姿。祭りで踊る村人達のように蠢く姿。
ウネウネと踊り狂っている。何かの祝い事の様に。年に一度の祭りの様に。なのに蛆虫達は無表情で何も喋らない。ただウネウネと臭く汚れた糞尿の上で踊り狂い続ける。
息をすると、口から鼻から吐き気をもよおす臭いが入ってきて、目や耳や穴という穴から蛆虫達が入り込んでくる気がする。目をつむり、それらを吐き出す様にタイちゃんの名を呼び、返事が無い事に安堵し、急いで蓋を閉める。そして堪えきれる所まで走り、なるべく肥溜めから遠く離れた場所で惣兵衛は胃の中のものを全て吐き出す。吐くものが無くなっても口に指を入れ、オエ、オエ、と涙を流し吐き続ける。いくら吐き続けても体の中に蛆虫が這い廻っているんじゃないかという恐怖は拭えない。
それほどまでの思いをしても見つからず、不安に押し潰されそうになりながらタイちゃんの家へ報せに行くと、タイちゃんは一人でとっくに帰っていて、ご飯を食べながらテレビに夢中になっているのだ。
惣兵衛は安堵より怒りを覚える。あんな怖い思いをさせたタイちゃんを憎みもする。けれどタイちゃんの無邪気な笑顔を見ると、そんな気持ちも無くなり翌日もまたいつも通りに仲良く遊んでしまう。自分がちゃんと監視してればいいんだ。勝手に一人で帰らないようきつく言い聞かせばいいんだ。と自分を納得させもする。
その後もタイちゃんは勝手に帰る事があり、その度に惣兵衛は肥溜めを覗いた。その度にあの恐怖が惣兵衛を襲う。何度も吐き、夜中も吐いた。もう肥溜めを覗きたくない。布団の中で思う。嫌な臭いに鼻をつまみ、吐き気を我慢しながら何度も思った。
そのうちに惣兵衛は蓋が閉まっていれば肥溜めを覗かないようになった。どうせ家に帰っている。落ちてる訳がない。そう思うようになってきた。
……あの日もそうだった。




