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007 【森の追跡者】

 ――おっかない巫女だ。


 深い森の中。


 木々の隙間から精霊殿を見つめながら、一人の男が額に浮かんだ汗を拭った。


 距離は十分にある。


 姿を見られるような距離ではない。


 気配も消している。


 精霊使いとして、それなりの隠密技術も身につけていた。


 それなのに――


「……気づいてやがる」


 精霊殿の前。


 白い巫女装束を纏った少女が、静かにこちらを見つめている。


 まるで。


 森の奥に隠れている男たちの姿が、見えているかのように。


「……この距離で、気づくのかよ」


 男は小さく舌打ちした。


 巫女は何も言わない。


 ただ。


 こちらを見ている。


 その視線だけで、男の背筋に冷たいものが走った。


「まずいな」


 隣にいた男が小声で言う。


「精霊どもも、こっちを警戒してる」


 木々の間。


 小さな精霊たちが飛び回っている。


 火。


 水。


 風。


 土。


 光。


 闇。


 様々な精霊が森の中を見回していた。


 彼らの目を誤魔化すことは難しい。


 まして。


 この精霊殿には――


「……あの巫女がいる」


 男は苦々しく呟いた。


 精霊殿。


 その内部へ侵入することが、どれほど困難なのか。


 改めて思い知らされる。


 正面から入るなど論外。


 隠れて近づいても、精霊たちが気配を伝える。


 そして何より――


 精霊殿を守る者たちが強すぎる。


「一旦、引くぞ」


 男が告げる。


「このままじゃ、全員捕まる」


 五人は静かに森の奥へと退いた。


 今のままでは無理だ。


 焦って動けば、失敗する。


 ならば。


 別の方法を使うしかない。


 ◇ ◇ ◇


 森を抜けたところで。


 一人の男が通信機を取り出した。


「俺だ」


 通信が繋がる。


『どうした?』


「正面からの侵入は無理だ」


 男は精霊殿の方を振り返る。


「あの巫女に気づかれた」


『……そうか』


「精霊たちも異常に敏感だ。あれじゃ隙がない」


 しばらく沈黙が続く。


 やがて。


『ならば、予定を変更する』


「どうする?」


『精霊殿そのものを混乱させろ』


「……混乱?」


『火を使え』


 男が眉をひそめる。


『爆発も起こせ』


「……なるほど」


『そして――』


 声が低くなる。


『妖怪を大量に呼び寄せろ』


 男の目が細くなった。


「妖怪を?」


『ああ』


 精霊殿の周辺には、妖怪が寄りつくことすら少ない。


 精霊たちが多く存在するためだ。


 しかし。


 だからこそ。


 そこを逆手に取る。


『大量の妖気を発生させれば、精霊たちの索敵能力も乱れる』


「火災と爆発で人間の目を逸らし、妖気で精霊を撹乱する」


『その隙に――』


 男が笑った。


「神代恵那を攫う」


『そういうことだ』


 通信が切れる。


 男は振り返った。


「聞いたな?」


 仲間たちが頷く。


 すぐに必要な物資が届けられた。


 火を起こすための道具。


 爆発を起こすための仕掛け。


 そして――


 妖怪を呼び寄せるための呪物。


 男は、その禍々しい呪物を手に取った。


「これだけの妖気なら――」


 口元が歪む。


「精霊殿も、しばらくはまともに機能しないだろう」


 準備は整った。


 ◇ ◇ ◇


「恒一にいさま、まだ?」


「急ぐな、啓太」


 その頃。


 啓太は恒一と玲司に連れられ、いつものように精霊殿へ向かっていた。


 週末。


 恵那に会える日。


 それだけを楽しみに。


 啓太は二人の兄の少し前を歩いている。


「今日、恵那は何してるかな」


「さあな」


 玲司が答える。


「また小さい子たちの面倒を見てるんじゃないか?」


「じゃあ、俺も手伝おうかな」


「お前が行ったら、遊び相手にされるんじゃないか?」


 恒一が笑う。


「それでもいいよ」


 啓太も笑った。


「恵那が楽しそうなら」


 神代家の惨劇から。


 啓太はずっと恵那のことを心配していた。


 あの日。


 怯えていた少女。


 家族を失い。


 一人ぼっちになった少女。


 そんな恵那が。


 少しずつ笑えるようになっている。


 精霊殿での生活にも慣れ。


 今では小さな子供たちの面倒まで見ている。


 だから。


 今日も、いつものように会える。


 啓太はそう思っていた。


 ――このときまでは。


 ◇ ◇ ◇


 ドンッ!!


「――っ!?」


 突然。


 遠くで爆発音が響いた。


 啓太たちの足が止まる。


 続いて。


 もう一度。


 ――ドォンッ!!


「何だ!?」


 玲司が顔を上げた。


 森の向こうから。


 黒い煙が上がっている。


「……精霊殿の方だ」


 恒一の表情が変わった。


 次の瞬間。


 風に乗って。


 異様な気配が流れてきた。


「……何だ、これ」


 啓太が呟く。


 空気が重い。


 肌にまとわりつくような。


 嫌な気配。


「妖気だ」


 玲司が低く言った。


 その直後。


 森の奥から。


 無数の咆哮が響き渡った。


「――妖怪!?」


 啓太の顔から笑顔が消えた。


「急ぐぞ!」


 恒一が叫ぶ。


 三人は一斉に走り出した。


 ◇ ◇ ◇


 精霊殿。


 突然。


 轟音が響き渡った。


 ――ドォォン!!


「きゃあっ!」


「何!?」


「妖怪が出た!」


「結界を!」


 建物が揺れる。


 窓が震える。


 庭の一角から炎が噴き上がった。


 さらに。


 森から大量の妖怪が押し寄せてくる。


「子供たちを避難させて!」


「こちらへ!」


「急いで!」


 巫女たちが子供たちを誘導する。


 精霊たちも一斉に飛び回っていた。


 火の精霊が炎を抑え。


 水の精霊が火を消す。


 風の精霊が煙を吹き飛ばし。


 土の精霊が崩れた場所を支える。


 だが。


 妖気が濃すぎる。


 次々と現れる妖怪。


 爆発。


 炎。


 逃げ惑う人々。


 精霊たちも、どこから何が来るのか把握しきれない。


 まさに――


 大混乱だった。


 そして。


 その混乱こそ。


 敵が待ち望んでいたものだった。


「今だ」


 森の陰。


 五人が動く。


 妖気に紛れ。


 精霊たちの索敵を掻い潜り。


 人々の視線を火と爆発へ向けさせる。


 五人は。


 まっすぐに――


 恵那のいる場所へ向かった。


 ◇ ◇ ◇


「大丈夫だから!」


 恵那は、小さな子供たちの手を引いて走っていた。


「こっち!」


「恵那お姉ちゃん!」


「怖いよ!」


「大丈夫!」


 恵那は必死に笑顔を作る。


「みんなで一緒に逃げれば大丈夫だから!」


 泣いている子の手を握る。


 そのとき。


 背後から。


 何かが近づく気配がした。


「……?」


 恵那が振り返る。


 森の中。


 誰もいない。


 ――そう思った。


 次の瞬間。


「捕まえろ!」


「――っ!」


 木の陰から。


 一人の男が飛び出した。


「えっ……!?」


 恵那が後ずさる。


 しかし。


 その腕を。


 男が掴んだ。


「離して!」


「騒ぐな!」


「嫌!」


 恵那は必死に抵抗する。


 けれど。


 相手は大人。


 力では敵わない。


「恵那お姉ちゃん!」


 子供たちが叫ぶ。


 恵那は振り返った。


「みんな!」


「お姉ちゃん!」


「逃げて!」


「でも――」


「大人のところへ行って!」


 恵那は叫んだ。


「早く!」


 その声に押されるように。


 子供たちは泣きながら走り去っていく。


「恵那お姉ちゃん!」


「振り返らないで!」


 恵那は男に引きずられながら叫んだ。


「早く逃げて!」


 子供たちの姿が遠ざかる。


 恵那は最後まで。


 子供たちを見つめていた。


 そして――


「行くぞ」


「分かった」


 男たちは恵那を抱え上げる。


「いやっ!」


 恵那が暴れる。


「離して!」


 だが。


 五人の男たちは、そのまま森の奥へ消えていった。


 ◇ ◇ ◇


「何だ……この状況は」


 精霊殿へ到着した啓太たちは。


 目の前の光景に言葉を失った。


 燃え上がる炎。


 立ち込める煙。


 逃げ惑う人々。


 そして。


 森から押し寄せる無数の妖怪。


「恒一にいさま!」


「分かってる!」


 恒一が駆け出す。


「啓太!」


 玲司が振り返る。


「お前はここにいろ!」


「でも!」


「ここは俺たちに任せろ!」


 兄たちは、それぞれ妖怪へ向かっていく。


 恒一の光が走る。


 玲司の水が舞う。


 二人が次々と妖怪を退けていく。


 啓太も動こうとした。


 自分も戦わなければ。


 何か手伝わなければ。


 そう思った。


 だが。


 その瞬間。


「……あれ?」


 啓太は辺りを見回した。


「恵那は?」


 いない。


 どこにも。


「……恵那?」


 胸の奥が。


 嫌な音を立てた。


 啓太は近くにいた子供を見つける。


「ねえ!」


「……?」


「恵那お姉ちゃんは?」


 子供の目に。


 涙が浮かぶ。


「……連れていかれた」


「……え?」


 啓太の顔から。


 血の気が引いた。


「誰に?」


「知らない人……」


 震える声。


「恵那お姉ちゃんが、私たちを逃がしてくれて……」


「……」


「そのあと……男の人たちに……」


 啓太は拳を握った。


「……森?」


 子供が頷く。


「うん……」


 啓太は、その子の肩に手を置いた。


「分かった」


「……え?」


「今話したことを、大人に伝えて」


「でも……」


「大丈夫」


 啓太は立ち上がった。


「俺が恵那を連れて帰るから」


 そして。


 森へ向かって走り出した。


「啓太!」


 恒一の声が飛ぶ。


「待て!」


 だが。


 啓太は止まらなかった。


 止まれるはずがなかった。


 恵那が。


 また。


 一人になる。


 その可能性を考えただけで。


 身体が勝手に動いていた。


 ◇ ◇ ◇


 森の中。


 啓太は走る。


 枝が顔を打つ。


 足元が崩れる。


 服が木々に引っかかる。


 それでも。


 止まらない。


「恵那……!」


 どこにいる。


 どこへ行った。


 何度も周囲を見る。


 けれど。


 姿はない。


 気配も分からない。


 それなのに――


「……こっちだ」


 啓太の足は。


 迷うことなく進んでいた。


 どうしてなのか。


 自分でも分からない。


 恵那の姿が見えているわけではない。


 魔力を感じているわけでもない。


 それなのに。


 まるで。


 何かに導かれるように。


 足が動く。


「……恵那」


 そのときだった。


 ――啓太くん。


「……!」


 啓太が足を止める。


 今。


 確かに聞こえた。


「恵那!?」


 耳を澄ます。


 何も聞こえない。


 だが。


 もう一度。


 ――啓太くん……。


「恵那!」


 走る。


 木々を掻き分ける。


 枝が頬を切る。


 それでも走る。


 そして。


 今度は。


 はっきりと聞こえた。


 ――助けて。


「恵那!」


 啓太はさらに速度を上げた。


 胸が苦しい。


 息が切れる。


 足が痛い。


 それでも。


 止まらない。


 あの日。


 伸ばした手が届かなかった。


 あの日。


 何もできなかった。


 だから。


 今度こそ。


「待ってろ、恵那!」


 啓太は叫んだ。


「俺が行く!」


 ◇ ◇ ◇


 夜の森。


 五人の男たちは、木々の間を進んでいた。


 恵那は一人の男に抱えられている。


「そろそろ出るぞ」


「まだだ」


 先頭の男が答える。


「ここまで来れば大丈夫だろ」


「油断するな」


 男は周囲を見回す。


 彼らは事前に精霊殿を調べていた。


 巫女の行動範囲。


 精霊たちの巡回。


 森の地形。


 侵入経路。


 逃走経路。


 可能な限り。


 調べ尽くしていた。


「ここなら簡単には見つからない」


「……そうだな」


 男が頷く。


 静かな森。


 木々の隙間から。


 月明かりが差し込んでいる。


 聞こえるのは。


 風の音だけ。


 ――そのはずだった。


「……?」


 一人の男が顔を上げた。


 何か。


 聞こえた。


 ――パキッ。


 枝を踏む音。


「誰だ?」


 返事はない。


 男は目を細める。


「……気のせいか」


 そう呟いて。


 前を向いた。


 その瞬間――


 ――ガサッ!!


「なっ!」


 木の陰から。


 一人の少年が飛び出してきた。


「うおっ!」


 男の身体が吹き飛ぶ。


「何だ!?」


 別の男が叫ぶ。


 恵那を抱えていた男が振り返る。


「誰だ!」


 木々の間。


 そこに。


 一人の少年が立っていた。


 服は泥だらけ。


 頬には枝でできた小さな傷。


 息は荒い。


 それでも。


 その目だけは。


 真っ直ぐだった。


「……啓太くん?」


 恵那が目を見開く。


 少年は。


 恵那を見つめた。


「恵那」


「どうして……」


「迎えに来た」


 啓太は一歩前へ出る。


 男たちが警戒する。


「ガキが一人……?」


「待て」


 一人の男が啓太の顔を見た。


「こいつ……」


 目を細める。


「天城家のガキだ」


「……何?」


「天城家の――啓太だ」


 五人の視線が。


 一斉に啓太へ向けられた。


 啓太は構える。


 拳を握る。


 足を踏みしめる。


 心臓が激しく鳴っている。


 怖くない。


 ――そう言えば嘘になる。


 相手は大人が五人。


 しかも。


 全員、精霊使い。


 対して。


 自分には――


 契約した精霊がいない。


 頼れる守護精霊もいない。


 それでも。


 啓太は退かなかった。


 恵那を見つめる。


 そして。


 もう一度。


 男たちへ視線を戻した。


「恵那を……」


 拳に力を込める。


「返せ」


 男の一人が笑った。


「一人で何ができる?」


 啓太は答えない。


「精霊もいないんだろ?」


 その言葉に。


 一瞬だけ。


 啓太の胸が痛んだ。


 ――精霊はいない。


 そう。


 その通りだ。


 自分は。


 まだ誰にも選ばれていない。


 だから。


 弱いのかもしれない。


 だけど。


 それでも――


「……関係ない」


 啓太は一歩踏み出した。


「俺には――」


 恵那を見る。


「守るって決めたから」


 その瞬間。


 森の中を。


 強い風が吹き抜けた。


 木々がざわめく。


 精霊たちの声が。


 遠くで響いた。


 啓太は知らない。


 今。


 自分のすぐそばで。


 何かが。


 確かに――


 こちらを見ていることを。


 そして。


 「選ばれぬ少年」と呼ばれる啓太の物語が。


 この夜。


 初めて。


 大きく動き始めた。

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