006 【選ばれぬ少年】
あの日から――
啓太の生活は、大きく変わった。
神代家の惨劇。
恵那との別れ。
そして――
精霊殿へ預けられた少女。
ほんの少し前まで。
当たり前だった日常が、すべて変わってしまった。
啓太は、何度も思い出していた。
泣いていた恵那。
自分へ伸ばされた小さな手。
そして。
届かなかった、自分の手。
あのとき。
自分は、何もできなかった。
だからこそ――
啓太は、幼いながらも理解していた。
――強くならなければならない。
強くなければ。
恵那を守ることができない。
その思いだけが。
今の啓太を突き動かしていた。
◇ ◇ ◇
「もう一度!」
「はい!」
朝。
まだ太陽が昇りきらない時間。
天城家の道場に、木刀の打ち合う音が響いていた。
――カンッ!
啓太の木刀が弾かれる。
「遅い!」
「っ!」
「もう一度だ!」
「はい!」
啓太は木刀を握り直した。
構える。
踏み込む。
振る。
――カンッ!
また弾かれる。
「腰が浮いている!」
「はい!」
「相手を見ろ!」
「はい!」
啓太は歯を食いしばった。
一回。
二回。
三回。
何度でも木刀を振る。
腕が痛む。
足が震える。
呼吸が乱れる。
それでも――
「もう一度!」
「はい!」
振る。
振る。
振る。
何度も。
何度も。
手のひらに豆ができても。
足がふらついても。
倒れそうになっても。
止めなかった。
「まだだ!」
「はい!」
その日から。
啓太の修行は、明らかに以前とは違っていた。
武術。
魔力操作。
体力鍛錬。
精霊に関する知識。
できることは、何でもやった。
少しでも強くなりたい。
少しでも早く。
恵那を守れるようになりたい。
ただ、それだけだった。
◇ ◇ ◇
だが――
啓太には。
一つだけ、どうしても手に入らないものがあった。
精霊。
精霊使いにとって。
最も重要な存在。
人間が魔力を操るだけでも、ある程度の魔術は使える。
だが。
精霊と契約した者は。
精霊の力を借りることで、より強大な力を引き出すことができる。
火。
水。
風。
土。
光。
闇。
この世界には、様々な精霊が存在する。
そして――
精霊は、人間を選ぶ。
どれほど強く願っても。
どれほど努力しても。
人間の側から、一方的に契約することはできない。
選ばれなければ。
精霊使いにはなれない。
そして。
啓太は、いまだに――
どの精霊にも選ばれていなかった。
◇ ◇ ◇
「父さま!」
「何だ?」
「今週も精霊殿に行きたい!」
修行を終えた啓太が、和臣のもとへ駆けてくる。
和臣は苦笑した。
「先週も行っただろう?」
「でも!」
啓太は真剣な顔で言った。
「恵那に会いたい!」
「……そうか」
「お願い!」
しばらく息子を見つめたあと。
和臣は小さく笑った。
「分かった」
「本当!?」
「ああ。ただし――」
和臣は指を一本立てる。
「今日の修行を終えてからだ」
「分かった!」
啓太は嬉しそうに頷いた。
それだけではない。
「恒一にいさま!」
「ん?」
「今度の休み、精霊殿に行ってもいい?」
恒一は困ったように笑う。
「父さんがいいと言ったなら、俺が止める理由はないだろ」
「やった!」
「ただし、修行をさぼるなよ」
「分かってる!」
次は姉。
「綾香ねえさま!」
「はいはい。恵那ちゃんに会いたいんでしょう?」
「うん!」
「ふふ。仕方ないわね」
そして。
「おばあさま!」
千代が、くすりと笑った。
「ふふ……そんなに恵那ちゃんに会いたいのかい?」
「うん!」
即答だった。
千代は優しく啓太の頭を撫でる。
「それなら、会いに行っておいで」
「ありがとう!」
こうして。
週末になるたび。
啓太は精霊殿へ向かった。
◇ ◇ ◇
「啓太くん!」
精霊殿に到着すると。
遠くから少女が駆けてくる。
「恵那!」
二人は、まるで昨日まで一緒にいたかのように笑い合った。
「元気そうだな」
「うん!」
啓太は、恵那の顔を見つめた。
少し前まで。
何かに怯えるようにしていた少女。
家族を失ったことさえ、うまく理解できずにいた少女。
けれど。
今の恵那の表情には。
少しずつ、笑顔が戻っていた。
「最近ね」
恵那が嬉しそうに話し始める。
「小さい子たちのお世話をしてるの」
「へえ」
「ご飯を食べるのを手伝ったり、一緒に遊んだり」
「恵那、偉いな」
「そうかな?」
「うん」
啓太は笑った。
「すごく偉い」
「……えへへ」
恵那も笑う。
その笑顔を見て。
啓太は、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
よかった。
恵那が笑っている。
それだけで。
今は十分だった。
「恵那さんは、すっかりお姉さんになりましたよ」
少し離れた場所から。
巫女が微笑みながら二人を見つめていた。
「本当?」
「ええ」
巫女は頷く。
「小さい子たちの面倒を、とてもよく見ています」
「そっか」
啓太は嬉しそうに笑った。
恵那が元気になっている。
それだけで。
本当に良かった。
◇ ◇ ◇
しかし。
そんな穏やかな時間の中で。
啓太の胸には、少しずつ別の感情が積もっていた。
――焦り。
ある日の夜。
天城家。
自分の部屋。
啓太は、一人で自分の手を見つめていた。
手のひらには。
今日の修行でできた傷。
それを、ゆっくりと握り締める。
魔力は扱える。
身体も鍛えている。
知識も学んでいる。
武術だって。
以前より、ずっと強くなった。
それなのに。
「……まだ」
啓太は呟いた。
「……まだなの?」
答える者はいない。
部屋の外から聞こえるのは。
夜の静けさだけ。
啓太は目を閉じる。
火の精霊。
水の精霊。
風の精霊。
土の精霊。
光の精霊。
闇の精霊。
何度も。
何度も。
呼びかけた。
けれど。
声は返ってこない。
精霊の気配は感じる。
姿だって見える。
なのに。
自分を選んでくれる精霊だけが――
いない。
「……俺は」
拳を握る。
「いつになったら……」
言葉が続かない。
頭に浮かぶのは。
恵那の姿だった。
火の精霊に選ばれた少女。
そして。
神代家代々の守護精霊――鳳凰。
対して。
自分には、何もない。
天城家の人間なのに。
恵那を守ると言ったのに。
あの日。
恵那に伸ばした手すら届かなかった自分が。
「……何も、持ってない」
悔しかった。
情けなかった。
胸の奥が、締めつけられる。
けれど――
啓太は涙を拭った。
「……だったら」
立ち上がる。
「もっと強くなる」
精霊に選ばれなくても。
魔術を磨く。
武術を磨く。
身体を鍛える。
知識を身につける。
できることは、全部やる。
「恵那を守れるくらい……」
啓太は、拳を握った。
「強くなる」
そして。
再び修行場へ向かった。
まだ夜は明けていない。
それでも。
少年の修行は、終わらなかった。
◇ ◇ ◇
その頃。
啓太たちの知らない場所で――
一人の男が、暗闇の中に立っていた。
手には一枚の資料。
そこには。
幼い少女の写真が載っている。
「……神代恵那」
男が、その名を呟く。
「精霊殿にいる、か」
その前には。
五人の男女が並んでいた。
全員が精霊使い。
だが。
精霊庁に所属する正規の精霊使いではない。
裏社会で仕事を請け負う者たちだった。
精霊との契約。
魔力の扱い。
戦闘技術。
どれも一流とは言えない。
しかし。
素人でもない。
人を襲い。
人を捕らえ。
必要とあれば――
人を殺す。
そんな仕事を経験してきた者たちだった。
「お前たちに、一つ頼みがある」
五人は黙って男を見る。
男は資料を閉じた。
「神代恵那を連れてこい」
一人が眉をひそめる。
「……精霊殿から?」
「ああ」
「無茶な話だ」
「だから、お前たちを呼んだ」
男は淡々と答えた。
「精霊殿は、普通の神社や寺とは違う」
その言葉に。
五人の表情がわずかに変わる。
「中には精霊が溢れている。巫女もいる」
「なら、なおさら無理だろ」
「無理ではない」
男は静かに笑った。
「やり方を選ばなければな」
「……報酬は?」
「成功すれば、約束する」
「失敗したら?」
男は答えなかった。
ただ。
資料に写された恵那の顔を見つめる。
「……失敗しなければいい」
その声には。
奇妙な確信があった。
五人は互いに顔を見合わせる。
やがて。
一人が肩をすくめた。
「分かった」
別の一人が続ける。
「やってやる」
男は満足そうに笑った。
「そうだ」
そして。
「神代恵那を――必ず連れてこい」
◇ ◇ ◇
その頃。
精霊殿。
「こっちだよ!」
「待って!」
庭に。
子供たちの笑い声が響いていた。
恵那も、その中にいる。
「えいっ!」
「きゃっ!」
小さな精霊たちが、子供たちの周囲を飛び回る。
火の精霊が舞い。
風の精霊が駆け。
小さな水の精霊が宙を跳ねる。
その光景の中で。
恵那は笑っていた。
神代家を失ってから。
初めて。
心から笑えている。
「……よかった」
少し離れた場所。
巫女は、その姿を静かに見つめていた。
だが。
その瞬間だった。
巫女の表情から。
笑みが消えた。
「……」
風が変わった。
精霊たちが。
一斉に動きを止める。
「……どうしたの?」
恵那が周囲を見る。
先ほどまで楽しそうに飛び回っていた精霊たちが。
森の方を見つめていた。
ざわざわと。
小さな声を交わしている。
巫女は。
ゆっくりと森へ視線を向けた。
「……来ますか」
小さな声だった。
誰にも聞こえないほど。
静かな呟き。
けれど。
その目は、森の奥を正確に捉えていた。
遠く。
深い森の向こう。
五つの気配。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
そして――
五つ。
人間。
精霊使い。
しかも。
こちらへ向かっている。
巫女は目を細めた。
「……神代家の事件から、まだそれほど経っていないというのに」
その声に。
ほんの僅かな憂いが混じる。
「もう、動き始めましたか」
◇ ◇ ◇
森の中。
五人の精霊使いが歩いていた。
先頭を歩く男が、足を止める。
「ここからだ」
目の前には。
深い森。
その先に。
精霊殿がある。
「本当にいるんだろうな?」
「ああ」
資料を確認する。
「神代恵那。年齢――」
そこで。
一人の女が、ふと顔を上げた。
「……待って」
「どうした?」
「何か……いる」
五人が同時に周囲を見る。
風が吹く。
木々が揺れる。
しかし。
人影はない。
「気のせいだろ」
「……そうかも」
女は首を傾げた。
だが。
その瞬間。
森の木々の間から。
無数の小さな光が浮かび上がった。
「……っ」
五人の顔が強張る。
火。
風。
水。
土。
光。
闇。
様々な精霊が。
森の中に現れていた。
そして。
全員が。
五人を見つめている。
「……囲まれた?」
一人が呟いた。
誰も答えない。
ただ。
精霊たちの視線だけが。
五人へ突き刺さっていた。
◇ ◇ ◇
精霊殿。
巫女は森を見つめていた。
その後ろでは。
何も知らない恵那が。
子供たちと笑っている。
まだ。
誰も知らない。
恵那を狙う者たちが。
すでに精霊殿の領域へ足を踏み入れたことを。
そして。
その侵入者たちが。
ただ少女を誘拐するだけでは済まない事件を引き起こすことを。
さらに――
遠く離れた天城家では。
一人の少年が。
まだ自分を選んでくれない精霊を求めながら。
ただひたすらに。
木刀を振っていた。
――選ばれない。
だから、弱い。
そんな言葉を。
誰かに言われたわけではない。
けれど。
啓太自身が。
そう思い始めていた。
だからこそ。
少年は知らない。
精霊に選ばれないことが。
必ずしも――
「力を持たない」という意味ではないことを。
そして。
自分が探し続けているものが。
すぐそこまで近づいていることを。
静かな夜。
一本の木刀が。
再び空を切った。
――ヒュッ。
まだ。
少年は知らない。
この一振りが。
やがて。
自分自身の運命を変える力へと繋がっていくことを。
そして。
精霊殿へ迫る五人の侵入者によって――
「選ばれぬ少年」の物語は。
ついに。
大きく動き始めようとしていた。




