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005 【精霊王の巫女】

 誰もが跪いていた。


 精霊庁の人間も。


 天城家の者たちも。


 そして――啓太の父や母でさえ。


 ただ一人。


 啓太だけが、その場に立ち尽くしていた。


「……誰なの?」


 静まり返った部屋に、啓太の声が響く。


 剛志の隣に立つ少女。


 白い巫女装束。


 長い髪。


 どう見ても、自分たちとそれほど歳の変わらない少女に見える。


 なのに。


 この場にいる誰もが、彼女に頭を下げている。


 啓太には、その光景が理解できなかった。


 少女は、そんな啓太を静かに見つめていた。


 そして――


 優しく微笑んだ。


「怖がらなくても大丈夫ですよ」


 その声は。


 幼い少女の姿からは想像できないほど、穏やかだった。


 啓太は戸惑う。


「……誰?」


「私は……」


 少女は、ほんの少しだけ間を置いた。


「精霊王に仕える巫女です」


 その言葉が落ちた瞬間。


 啓太の周囲にいた精霊たちが、一斉に反応した。


 火。


 風。


 水。


 土。


 光。


 闇。


 それぞれ異なる場所にいた精霊たちが。


 一斉に動きを止める。


 まるで。


 何かを恐れ。


 何かを敬うように。


 静まり返った。


「……精霊が……」


 啓太は呟いた。


「ええ」


 巫女は微笑む。


「私のことを知っていますから」


 その言葉に。


 啓太は、ますます分からなくなった。


 精霊。


 それは、この世界に存在する自然そのものの力。


 人間より遥かに長い時を生きる存在。


 人間とは異なる理を持つ存在。


 そして――


 その精霊たちにも。


 王がいる。


 精霊王。


 すべての精霊の頂点に立つ存在。


 そして、その精霊王に仕える人々がいる。


 精霊王を祀る神殿。


 ――精霊殿。


 その中でも。


 精霊王の言葉を人間へ伝える役目を持つ者。


 それが――


 目の前にいる少女だった。


 ◇ ◇ ◇


 巫女は、ゆっくりと恵那へ視線を向けた。


 恵那は、精霊庁の職員に抱えられたまま、涙を浮かべている。


「恵那さん」


「……はい」


「怖かったですね」


 たった、それだけだった。


 その一言を聞いた瞬間。


 恵那の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……はい」


 巫女は恵那の前まで歩いていく。


 そして。


 小さな手を、そっと恵那の頭に乗せた。


「もう大丈夫ですよ」


「……でも……」


「あなたは、もう一人ではありません」


「……」


 恵那は何も言えなかった。


 その言葉が。


 不思議なほど胸の奥へ染み込んでいく。


 家族を失った。


 帰る場所もなくなった。


 何が起きたのかも分からない。


 そんな少女にとって。


 その言葉は。


 初めて与えられた、確かな安心だった。


 やがて。


 巫女は、部屋にいる全員へ向き直る。


「精霊王より、神託を預かっています」


 空気が変わった。


 誰もが息を呑む。


 神託。


 その言葉だけで。


 精霊庁の職員たちの表情が強張った。


「神代恵那を――」


 巫女は静かに告げる。


「精霊殿に預けなさい」


 誰も口を開かなかった。


 精霊庁の職員ですら。


 何も言えない。


 それは。


 巫女個人の命令ではない。


 精霊王の意思。


 精霊王からの神託だった。


「……承知しました」


 やがて。


 精霊庁の代表が頭を下げる。


 先ほどまで恵那を連れていこうとしていた者たちも。


 誰一人として反論しなかった。


 啓太は呆然と、その光景を見ていた。


「待って」


 啓太が巫女を見る。


「恵那を……連れていくの?」


「はい」


「じゃあ――」


 啓太は、震える声で尋ねた。


「俺は?」


 巫女は、少しだけ悲しそうに微笑んだ。


「啓太さんも、恵那さんと一緒にいたいのですね」


「……うん」


「そうですか」


 巫女は啓太の目を真っ直ぐに見つめた。


「でも、恵那さんには今、精霊殿で過ごしてもらう必要があります」


「嫌だ!」


 啓太が叫んだ。


「また離れるのは嫌だ!」


 巫女は怒らなかった。


 ただ。


 啓太の前まで、ゆっくりと歩いていく。


「啓太さん」


「……」


「恵那さんを、大切に思っているのですね」


「……うん」


「ならば」


 巫女は優しく微笑んだ。


「恵那さんのために、少しだけ我慢できますか?」


 啓太は唇を噛んだ。


「……でも」


「約束します」


 巫女は言った。


「いつでも恵那さんに会えるようにします」


「……本当?」


「ええ」


 啓太は、じっと巫女を見つめた。


 嘘を言っているようには見えない。


 その瞳は。


 不思議なくらい穏やかだった。


 やがて。


 啓太は、小さく頷いた。


「……分かった」


「ありがとうございます」


 巫女は微笑んだ。


 恵那もまた、啓太を見る。


「啓太くん……」


「大丈夫」


 啓太は笑った。


 泣きそうになりながら。


「また会えるんだろ?」


「うん……」


「じゃあ、待ってる」


 恵那は涙を拭った。


「私も……待ってる」


 二人の手が。


 ゆっくりと離れていく。


 ほんの数日前まで。


 いつも一緒にいた二人。


 けれど。


 今度の別れは。


 永遠のものではなかった。


 いつか。


 また会える。


 その約束だけが。


 二人を繋いでいた。


 ◇ ◇ ◇


 数日後。


 恵那は、精霊殿へ向かっていた。


 天城家の屋敷を離れ。


 山深い場所へ入っていく。


 車を降りる頃には。


 人の気配は、ほとんどなくなっていた。


 聞こえるのは。


 木々のざわめき。


 鳥の声。


 そして――


 風の音。


 やがて。


 巨大な鳥居が姿を現した。


 その向こうには。


 深い森が広がっている。


 だが。


 ただの森ではなかった。


 空気が澄み切っている。


 まるで。


 肺の中まで洗われてしまうような、圧倒的な清浄さ。


 木々の間を。


 小さな精霊たちが飛び回っている。


 火の精霊。


 風の精霊。


 水の精霊。


 土の精霊。


 光の精霊。


 そして。


 闇の精霊。


 そのどれもが。


 穏やかだった。


「ここが……精霊殿」


 恵那が呟く。


「そうですよ」


 隣を歩く巫女が答えた。


「今日から、ここがあなたの家です」


「私の……家」


 恵那は、その言葉を小さく繰り返した。


 そして。


 後ろを振り返る。


 遠くに連なる山々。


 その向こうには。


 もう見えなくなった天城家がある。


 少しだけ。


 胸が寂しくなる。


 啓太くん。


 今頃、何をしているだろう。


 泣いていないだろうか。


 自分と同じように。


 寂しがっていないだろうか。


 けれど。


 ここなら。


 少なくとも。


 自分を狙う誰かに怯え続ける必要はない。


 何より。


 精霊たちが、とても穏やかだった。


「……鳳凰も?」


 恵那が尋ねる。


「はい」


 巫女が頷いた。


「鳳凰も、ここで傷を癒すことができます」


「よかった……」


 恵那の表情が、ほんの少しだけ緩む。


 神代家の惨劇以来。


 鳳凰は傷ついていた。


 それでも。


 恵那のそばを離れようとはしなかった。


 まだ。


 正式な契約を結んでいるわけではない。


 それでも。


 神代家の守護精霊として。


 鳳凰は、恵那を守ろうとしている。


「鳳凰も……一人じゃないんだ」


 恵那は、小さく呟いた。


「ええ」


 巫女は微笑んだ。


「あなたも、です」


「……」


 恵那は巫女を見上げた。


「私も?」


「はい」


 巫女は答えた。


「ここでは、あなたを一人にはしません」


 その言葉に。


 恵那は、ほんの少しだけ笑った。


 ◇ ◇ ◇


 精霊殿には。


 恵那と同じくらいの年齢の子供たちがいた。


「こんにちは」


「新しい子?」


「名前は?」


「神代恵那です……」


 最初は緊張していた恵那だったが。


 少しずつ。


 子供たちの輪の中へ入っていった。


 恵那が思っていたより。


 精霊殿は賑やかだった。


 もっと静かで。


 誰もいない。


 そんな場所だと思っていた。


 けれど。


 ここには多くの人が暮らしている。


 精霊との関わりを学ぶ子供。


 事情があって預けられた子供。


 巫女を支える者。


 精霊王に仕える者。


 様々な人間が。


 ここで生活していた。


 ただ。


 一つだけ。


 恵那は奇妙なことに気付いた。


 ――大人の男がいない。


 精霊殿にいる大人は。


 ほとんどが女性だった。


 巫女。


 巫女を支える者。


 子供たちの世話をする者。


 それ以外にも。


 多くの女性がいる。


 なのに。


 大人の男だけが。


 一人もいない。


 そして。


 恵那は、もう一つの違和感に気付いていた。


 この神殿には――


 精霊王がいる気配がない。


「巫女さん」


「はい?」


「精霊王様は……どこにいるの?」


 巫女は、少しだけ微笑んだ。


「それは、いつか分かりますよ」


「今は会えない?」


「ええ」


「どうして?」


「精霊王には、精霊王のお役目がありますから」


「お役目……?」


「はい」


 それ以上。


 巫女は答えなかった。


 恵那は不思議そうに首を傾げる。


 けれど。


 今は、それ以上聞かなかった。


 ここで。


 生きていく。


 それが今の自分にできることなのだと思った。


 ◇ ◇ ◇


 夜。


 精霊殿の庭。


 月明かりの下で。


 恵那は一人、座っていた。


 手のひらには。


 小さな炎が灯っている。


 その炎の向こう。


 少し離れた場所に、鳳凰がいた。


 傷ついた翼。


 弱々しく揺れる炎。


 それでも。


 その姿は美しかった。


「鳳凰……」


 恵那が呼ぶ。


 鳳凰は静かに顔を上げた。


「ここなら、治るんだって」


 鳳凰は答えない。


 ただ。


 静かに恵那を見つめている。


「元気になったら……」


 恵那は小さく笑った。


「いつか、ちゃんと契約しようね」


 鳳凰の瞳に。


 小さな炎が揺らめいた。


 その瞬間。


 遠くから風が吹いた。


 木々が揺れる。


 無数の精霊たちが夜空を舞う。


 恵那は空を見上げた。


 ここには。


 天城家とは違う時間が流れている。


 そして。


 この場所で過ごす時間が。


 やがて。


 恵那自身を大きく変えていくことになる。


 ◇ ◇ ◇


 一方。


 精霊殿から遠く離れた天城家。


 啓太もまた。


 夜空を見上げていた。


「……恵那」


 今頃。


 何をしているのだろう。


 寂しくないだろうか。


 泣いていないだろうか。


 啓太は拳を握った。


 ――強くなる。


 恵那に会いに行くために。


 恵那を守るために。


 まだ。


 啓太には精霊がいない。


 自分だけが。


 天城家の中で、精霊に選ばれていない。


 それでも。


 少年の胸には。


 確かな決意が宿っていた。


 いつか。


 恵那に追いつく。


 いつか。


 恵那の隣に立つ。


 そして――


 今度こそ。


 自分の力で守れるようになる。


 その決意が。


 やがて精霊との出会いへと繋がっていく。


 まだ。


 二人の物語は始まったばかりだった。

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