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004 【少女の巫女】

 神代家の惨劇から、数日が過ぎた。


 恵那は――天城家で保護されていた。


 だが。


 それは、決して穏やかな日々ではなかった。


 神代家を襲った事件について、いまだ何一つ分かっていない。


 犯人も。


 目的も。


 そして――なぜ、あの夜にあれほどの惨劇が起きたのかも。


 ただ一つ確かなのは。


 恵那が、あの事件を生き残った少女だということ。


 そして。


 その少女を巡って、すでに大人たちの世界が動き始めているということだった。


 ◇ ◇ ◇


「啓太くん、恵那ちゃんを部屋から出してあげなさい」


 天城家の一室。


 その扉の前で、美和が困ったような表情を浮かべていた。


「嫌だ!」


 扉の向こうから、即座に返事が飛んでくる。


「啓太くん……」


「絶対に嫌だ!」


 部屋の中。


 啓太はベッドの前に立っていた。


 その背後には、恵那がいる。


 小さな身体を布団に包み、不安そうに啓太を見つめていた。


「大丈夫だよ、恵那」


「でも……」


「俺が守るから」


 啓太は振り返り、恵那に笑いかけた。


 その笑顔は。


 まだ幼い少年のものだった。


 けれど。


 その目だけは、決して揺れていなかった。


 神代家で事件が起きてから。


 恵那は、ほとんど啓太のそばを離れなくなった。


 そして啓太も。


 恵那を一人にしようとはしなかった。


 食事をするときも。


 眠るときも。


 移動するときも。


 いつも、すぐそばにいる。


 まるで。


 少しでも離れれば、また何かが起きてしまうとでも思っているかのように。


「啓太」


 扉の外から、今度は和臣の声がした。


「恵那ちゃんは、誰かに連れていかれるわけじゃない」


「嘘だ!」


「啓太……」


「だって!」


 啓太の声が震える。


「みんな、恵那を連れていこうとしてるじゃないか!」


 美和と和臣は顔を見合わせた。


 否定できなかった。


 なぜなら。


 すでに――


 天城家の外では、事態が大きく動いていたからだ。


 ◇ ◇ ◇


 精霊庁。


 日本における精霊使い・魔術師を管理、監督し、精霊に関わる事件を統括する国家機関。


 その上層部から。


 天城家へ、一通の正式な命令が届いていた。


 ――神代恵那を、精霊庁へ引き渡せ。


 理由は明確だった。


 恵那は、神代家の事件現場で確認された唯一の生存者。


 世界でも五指に入る火の精霊使いの名門。


 そして。


 代々受け継がれてきた守護精霊――鳳凰。


 その血を引く少女を。


 国家が放置するはずはなかった。


「……ふざけるな」


 天城家当主・剛志は、低い声で言った。


 目の前には、精霊庁から派遣された数名の職員。


「まだ幼い子供だぞ」


「承知しております」


 職員の一人が頭を下げる。


「だからこそ、国家による保護が必要なのです」


「保護?」


 剛志の眉が動く。


「家族を奪われたばかりの子供を、家から引き離すことが保護だというのか?」


「天城家による保護にも、問題があります」


「何だと?」


「今回の事件において、天城家も無関係とは断定できません」


「……」


 空気が凍った。


 剛志の目から、完全に温度が消える。


「もう一度言ってみろ」


「お父さん」


 和臣が静かに制した。


 だが。


 その声にも、怒りが滲んでいた。


 天城家は。


 何十年にもわたり、精霊使いによる犯罪や争いを処理してきた。


 精霊使いの力が、一般社会を脅かさないように。


 そのために。


 表には出ない場所で、幾度となく血を流してきた。


 それを。


 今回の事件に関与している可能性がある――と。


「我々にも命令があります」


 職員は淡々と続ける。


「神代恵那を引き渡していただきたい」


 長い沈黙。


 そして。


「断る」


 剛志は、はっきりと言った。


「あの子は物じゃない」


 ◇ ◇ ◇


 その後。


 剛志は自ら精霊庁へ向かった。


 正式に異議を申し立てるためだった。


 しかし。


 帰ってきた答えは。


 変わらなかった。


 ――国家命令である。


 その一言。


 そして。


 その日の夜。


 天城家の前に、複数の車両が停まった。


 ◇ ◇ ◇


「啓太」


 和臣が、再び部屋の前に立つ。


「恵那ちゃんを出してくれ」


「嫌だ」


「啓太」


「嫌だ!」


 啓太は叫んだ。


「恵那を連れていくんだろ!」


「……」


「だったら、絶対に出さない!」


 まだ十歳にも満たない少年。


 魔術師として見れば。


 未熟。


 精霊使いとして見れば。


 まだ何者でもない。


 それでも。


 啓太は扉の前から一歩も動かなかった。


 その背中が。


 恵那を守る壁になっていた。


「啓太くん……」


 恵那が、服の袖を掴む。


「私……どうなるの?」


「大丈夫」


「でも……」


「ここにいればいい」


 啓太は答えた。


「俺がいるから」


「……」


「絶対に、誰にも渡さない」


 恵那の目に涙が浮かぶ。


「啓太くん……」


 そのときだった。


 ――ドンッ!


 突然。


 屋敷の外から、鈍い衝撃音が響いた。


 啓太が振り返る。


「……何?」


 次の瞬間。


「こちらも強制手段を取らざるを得ません!」


 廊下から声が響いた。


 そして――


 扉を覆っていた魔力障壁が。


 一瞬で砕け散った。


 バァンッ!!


「っ!」


 啓太は恵那の前に飛び出した。


「恵那!」


 精霊庁の職員たちが一斉に部屋へ入ってくる。


「神代恵那を保護します!」


「嫌だ!」


 啓太は叫んだ。


「出ていけ!」


「啓太!」


 和臣が制止する。


 しかし。


 啓太は退かなかった。


「恵那は、ここにいる!」


「どきなさい!」


「嫌だ!」


 職員の手が伸びる。


 啓太は魔力を身体へ巡らせた。


 身体能力を高めようとする。


 だが――


 まだ幼い。


 そして。


 啓太には、契約した精霊がいない。


「くっ……!」


 腕を掴まれる。


「離せ!」


 啓太は必死にもがいた。


「恵那を離せ!」


 だが。


 大人と子供。


 力の差は歴然だった。


 啓太の身体が、床へ押さえつけられる。


「啓太くん!」


 恵那が叫んだ。


「嫌!」


 別の職員が、恵那へ手を伸ばす。


「いやあああっ!」


 恵那は泣きながら、啓太へ手を伸ばした。


「啓太くん!」


「恵那!」


 啓太も手を伸ばす。


 届かない。


 あと少し。


 あと少しなのに。


 指先が――


 届かない。


「離せ!」


 啓太の目から涙が零れた。


「恵那を返せ!」


 その瞬間だった。


 ――空気が変わった。


「……?」


 誰かが息を呑んだ。


 全員の動きが止まる。


 静寂。


 まるで。


 世界そのものが、息を止めたようだった。


 そして。


 廊下の奥から。


 足音が聞こえてきた。


 コツ。


 コツ。


 コツ。


 一歩。


 また一歩。


 ゆっくりと。


 誰かが近づいてくる。


 やがて。


 玄関の方から、一人の老人が姿を現した。


「……祖父ちゃん?」


 啓太が呟く。


 剛志だった。


 精霊庁から戻ってきたばかりの祖父。


 だが。


 啓太の視線は。


 剛志の隣に立つ存在へと移った。


「……誰?」


 そこにいたのは。


 一人の少女だった。


 白い巫女装束。


 長い髪。


 幼い少女のような姿。


 年齢だけを見れば。


 恵那と、それほど変わらないようにも見える。


 しかし――


 その場にいた全員が。


 少女の姿を見た瞬間。


 一斉に跪いた。


「――!」


 啓太は目を見開いた。


 さっきまで自分を押さえつけていた精霊庁の職員も。


 父も。


 母も。


 兄も。


 姉も。


 誰一人として。


 少女に顔を上げる者はいなかった。


「……え?」


 啓太には。


 何が起きているのか分からない。


 ただ。


 恵那を抱き上げようとしていた職員までもが。


 少女を見た瞬間。


 青ざめた顔で跪いている。


 少女は。


 そんな彼らを気にする様子もなかった。


 静かに。


 部屋の中を見渡している。


 そして。


 その瞳が。


 啓太を捉えた。


「……」


 少女は何も言わない。


 ただ。


 じっと見つめている。


 次に。


 恵那を見る。


 泣いている少女を。


 そして。


 その少女を守ろうとしている少年を。


 しばらく見つめたあと。


 少女は、ゆっくりと一歩だけ前へ進んだ。


 その瞬間。


 室内にいた火の精霊たちが、一斉に揺れた。


 ――ざわっ。


 小さな炎が。


 まるで少女へ頭を垂れるように。


 静かに揺らめく。


「……精霊が……」


 誰かが呟いた。


 啓太は、その光景を見つめる。


 少女の周囲には。


 契約の証となる魔力すら見えない。


 なのに。


 精霊たちが。


 彼女を恐れ。


 彼女を敬い。


 彼女の前にひれ伏している。


「祖父ちゃん……」


 啓太は震える声で尋ねた。


「この人……誰なの?」


 剛志は答えなかった。


 ただ。


 少女の隣に立ち。


 ゆっくりと頭を下げる。


 その姿を見て。


 啓太の胸に、初めて小さな恐怖が生まれた。


 祖父が。


 天城家当主である祖父が。


 自分より遥かに幼く見える少女に。


 頭を下げている。


 ――なぜ?


 この少女は。


 一体、何者なのか。


 そして。


 なぜ精霊庁の人間までが。


 彼女に逆らうことができないのか。


 少女は。


 再び啓太を見る。


 その瞳は。


 どこまでも静かだった。


 まるで――


 少年の中にある何かを。


 見抜こうとしているかのように。


 そして。


 啓太はまだ知らなかった。


 この少女との出会いが。


 自分と恵那の運命を。


 そして。


 精霊使いの世界そのものを。


 大きく変えていくことを。


 少女の名は――


 まだ。


 誰も知らない。


 ただ一つ。


 この日。


 一人の少女が。


 巫女として。


 そして――


 精霊の世界を動かす存在として。


 少年たちの前に姿を現した。

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